おもむき。おもしろみ。

ショッピングモールの掃除の仕事で

裏の通路に入った時

「寿司室」という看板があった。
 
 
 
「寿司室」
 
 
 
すししつ。
おそらくそれは、というか確実にそれは、食料品売り場の裏側のお寿司を調理するための部屋で それを分かりやすいように従業員に掲げているための表記だ。なのはわかっているが 私はそれがなんか 面白かった。なんでだろう?

 
そんなもの理由も何もあったもんじゃないとは思うが 自意識に対して野暮なのは承知で思い巡らせてみたい。

 
こういう時

「シュールだなぁ」

とか安直な感想を抱いてしまう。

 
それはシュールという言葉の便利さにもたれかかっている気がしてむしろナンセンスでありペーソスだ。

 
それでよく展開される論調は「「シュール」とは「シュルレアリスム」の事でありフランスの詩人アンドレブルトンの提唱した思想活動、芸術の形態主張のひとつの事で 日本語訳すると「超現実主義」。なので本来の意味からズレた使い方をしている。」だ。

「超現実主義」とは現実を超えた表現という事ではなくて
過剰なまでに現実を意識する状態を指す。無意識下レベルで。

サルバドールダリはうたた寝した状態でその時見ていた夢の絵をキャンパスに描いていたという逸話がある。

つまりそれは空想空間ではなくあくまで現実に立脚した無意識下の表現を試みているのだ。

 
むしろ「シュール」という言葉が一般的市民権を得て使われてる意味とは真逆なのだ。

 

その上で「寿司室」は「シュール」なのか

私が感じたこの面白みは「寿司」という言葉と「室」という組み合わせであると同時に
それが目の前に文字として表れ看板として存在しそれを他の従業員たちは享受しそれでその空間はシステムとして循環しているという点と あとはもうなんとなくの言葉の響きとかタイミングとかそういう感覚的な面白さとかだと思う。

これは私がそう捉えているという点では無意識下の面白みなのかもしれないがそれがそこに表現されている状態としても面白いという事だ。ダリが夢の絵を描いている表現やそれに伴う感想等を含めて「シュルレアリスム」と呼べるが、それをよくわかってないで遠くから「シュルレアリスム」を眺めているこの状態に対する趣にはまだ明確なもしくは一般的な名前が無い。

たぶんその状態の事を「シュール」と呼んでいる。
だからお笑いで言うと「すべり芸」的なものと混同されるし
資本主義や大量消費経済の歪みを時代ごと懐かしみセレクトしてゆくVaporweveみたいな表現を指して漠然と「シュール」と体感を覚えてしまう。

俯瞰まで行かないが無意識下を表現しているわけでもない。
それが「シュール」というものなのでしょうか。

ORANGE RANGEで「SUSHI食べたい」