うつつ。
夢、幻、霊魂に対しての 現実。
目がさめていること。
正気なさま。

 
星新一のショートショートにこういう話があった。
ある死刑囚が執行までの数ヶ月間
眠ることぐらいしか暇つぶしが無いので
夢をコントロールしようと思い付く。

あらゆるイメージを膨らませ重ねて念じ床につく事を繰り返していると、だんだんと自分の思い通りの夢が見られるようになる。

最初は食べたい物や抱きたい女の夢を楽しんでいたが、だんだんコントロールが拡張してゆき ほぼ全く別の男の人生そのものを夢の中で体感出来るようになる。そうすると眠ってる時間が長くなり 夢と現実が逆転してゆく。
 
 
私はこれを読んだ時
「なるほど。そうかもな」と思った。

今 見てるこれは 夢かもしれない。
 
これが現実である保証はどこにもない。

私という実態はこれでは無いのかもしれない。

そう思った。
 
 
 
ドナルド・D. ホフマン という認知心理学者がいる。
彼は「人は概念の囚人である」と説く。

私たちが目にしている物理的な物体はただのシンボルに過ぎない。
そして、物体が存在しているかのように見える時空は、客観的な現実を超えた特定のインターフェースのデスクトップの上と同じだ。
と述べている。

これは
今見ている感じている現実は
今見ている感じている現実でしかない
ということだ。

今見ていない感じていない現実が
実際の現実かもしれない
ということだ。

うん。
わけがわからんですね。 

 

 
私の中で一番古い記憶を辿ると

父親がエスカレーターを逆走して迫ってくる映像が一瞬浮かぶ。

これはなんだろう?
と思っていたのだが

ある時、母親にそのことを訪ねてみたら

「たぶん1〜2歳の頃、デパートにつれていった時 あなたが迷子になってエスカレーターの下で佇んでたのを父さんが見つけて駆けつけた時の思い出だよ」

と言われた。

そうか。そういう記憶だったんだ。
と合点がいった。

 
ただ、
それを聞いた上でも私の現実感は強まらず
この薄らぼんやりとした知覚の断片は
もはや夢か現実かわからないままだった。

 
 
 
今あるこれらはいつかわからなくなって
どうでもよくなってしまう。

 
そう思うと

 
 
なにが現実かなにが現実でないか
どうでもよくて 楽しいですね。