イライラ棒は イライラ感が少ない。

イライラさせられる というよりは ハラハラという恐怖心や メラメラとした勝負欲を駆り立てる演出だったと思う。おぼろ気な記憶ながら。

裁縫で針の穴の中に糸を通すイメージからだろうか。名前の発想は。 あれは確かにイライラする。通りそうで通らないもどかしさ。一点に全神経を集中させる労力に対して達成される目的となかなか思い通りにならない時間経過の無駄さが割りに合わない。イライラする。

 
怒りは
自らの状態や置かれた状況の変化に対する感情や感覚の慣性の法則的な揺らぎ 。
だと 以前 定義付けしてみた。

 
苛立ち はなんであろうか?

 
単純にそれが連鎖し持続している状態
なのだと思う。

 
継続する一定の変化。
これが自分の脈拍と合わないとイライラが沸き立ち始めるのだろう。

映画館で右斜め後方の席に座る男性客のポップコーンの咀嚼音が気になる。
長めに口の中に滞在させるタイプの噛み砕き方で大分柔らかくしてから飲み込むので 後半は水分を多目に含んだトウモロコシの粒が口内で転がされその微妙な周波数がぺちゃぺちゃと鼓膜の内側に忍び込んでくる。これは不快だ。

そういうポイントは一度 気になりだしたら中々脳ミソからは剥がれ落ちない。気になる。イライラする。振りほどこうとすればするほど意識下に絡み付いてくる。嫌だ。そしてこれが厄介なのは自分で終わるタイミングを選べない事だ。気になりのゲートが開いてしまったら一時的に咀嚼の雨が止んだとしても 再発した時の苛立ちが倍増するだけ。それを注意してしまうと無音状態でもある程度のストレスがもたれ掛かってしまう。無の時間にイラだっている。逆に急に終わったとしてもそれはそれでムカついてしまうし。もはや無にイライラしている。空虚である。映画の内容全然入ってこない。
 
 
たゆまぬ変化とそれの定型化
その繰り返しの安定供給がイライラの正体であろう。
 
 
 
 
 
すこし話がズレるが
 

そのイライラもさらに続くと
ふと 自分から離脱する瞬間 って訪れることない ?
 
 
私は睡眠不足や風邪を惹いた時などにそれになる。
 
 
一種のランナーズハイみたいなものだと思うのだが、 ストレスハイとでも言うのだろうか。
精神が刺激に対する許容量の限界を迎えたら 自意識を越えて自我と身体とが解離してくる。
自分の肉体や呼吸のテンポが自分の意志で動いているという事がなんだか不思議に感じてしまう。
イライラの向こう側なのかもしれない。
現実逃避のひとつの手段であるとも思う。
わかる人にしかわからないかもしれないが 意識はあるのに自分の体から心が切り離されて すこし ふわ〜っ と浮かんでゆく様な感覚。

昨今「人見知り」とか「考えすぎ」などの言葉が一人歩きして「自意識過剰」という価値観が一周回ってあまり意味をなさなくなってしまっているが、ここらで私は 「自我過剰」を提唱したい。「自意識」ではなく「自我」。自意識が自己と他者の認知乖離によって際悩まされているコミュニケーションや自己肯定感に関連するものなら、自我はもっと根本的な自らの身体と精神を指し そして起こりうるその間の乖離。自分が自分であるという確証が得られなくなる瞬間がある。言うなれば「思見知り」とか「感じすぎ」の弊害。私は一体誰だ?というか存在出来ているのか?そもそもこの世界はあるのか?

これは面倒臭い。まだ映画を観ながら くちゃくちゃハラスメントを受けていた方がマシだった。ポップコーン口遊びおじさんは確固たるその存在を感じ取れる。イライラの向こう側は軽度の離人症。ふんぞり返った自我はおじさんどころかその現実世界と今観てる映画の区別が感覚的にはわからなくなってしまっているのだから。

お腹が空いてるけど食べたくない。
もしくはお腹いっぱいだけど食べれてしまえる。
酔っ払って目の前の相手も飽きているのは解っているのだけど自分がなんか勝手に喋ってしまってる。
すごいエロい気持ちになってて目の前に裸の女性がいるのに なぜか全然 反応しない。etc.

そんな事がちょこちょこある。
ただまぁそれが悪い事でもないとは思うが。

でも最後のは特に深刻な問題。
男としての自信が懸かっている。
イライラ棒ならぬムラムラ棒。無事クリアしたいものですね 。

 
 
……
 

すいません。 そうです。
何も思い付かなかった時の苦し紛れの急な下ネタ。

今のギャグにイラっとした方。
どうやら自我は正常です 。ご安心を 。