西

関西disみたいな風潮がどこか漂う。

押し付けがましいものを忌嫌うそれは時代的なものかはわかりませんが、西と聞くとやはり関西的なマインドを思わず想起してしまい そしてどこか庶民的、近親的、内輪的なものをイメージしてしまう。

けれどもどうでしょう。冷静になってみて。

西という響き自体には私はとても
主人公気質みたいなものを感じるんです。
そしてそれはクールなスタイリッシュなものなんです。

 
東に対して西という
比較対象から生まれるカウンターカルチャー
あくまで中心を東とするからこその西という立ち位置なのだと思うのです。
 
私は常々この関西的なものに対する
いじりやdis、自虐的なものに対して
違和を感じていた。

関西というだけでその人の性格が決められてしまう感じ。
二人揃えば漫才師では無いし
「ボケたんだからツッコんでよ」という強要は関西問わずやる人がやるという話なだけだし
皆が皆 粉物しか食べない訳ではない。

 

なんというかそういうものを真正面からダサがったりイジったり嘲笑したりするコミュニケーションがあるのは知ってるがなんか自分でそれをやるのは恥ずかしいんだ。
 
なんかそのベタなものは
素材そのものの旨味では無い気がしちゃう。
食する事もあるとは思うけど。
 
 
 
よく聞いてほしいのは
私が関西を嫌いと言ってるんじゃなく
むしろ関西を真正面から嫌だとか苦手だとか言ってる感じが好きではないのであって
しかも関西の人がある程度それを許容したり理解して使いこなす感じが 含めてなんかすんなり飲み込めないんだ。

 
 
右と左 という言葉の響きは
西と東 という言葉の響きと似てて
 
西が右
東が左

だとすると西のこの右感は
関西と表記していた時の左感とは全く異なる。
 
むしろ逆転しているのでは。

 
 
関東を中心と据え置いた時の対抗馬として出来上がったキャラクターがやはり関西で、それに選ばれた理由はいくつもあれど江戸時代以前の日本の中心は近畿地方であったわけで。
 
 
そういうポジションってあったほうが物事がいろいろ円滑に進んでゆく事の方が多い。
いわゆる永遠の2番手。

そこに辿り着くにはやはり
まず中心核ではないという自己表明、
イジられキャラ的なアイデンティティだ。
社会はまず土台から作られる。
分かりやすくいじってもいいポジションは普遍化した時そこを起点にフォーメーションを組みその循環があらゆる産業化を起こす。
 
それ自体は抜本的なシステムの話だが
それが根付いた後、その枠組の中で 力を持ってしまった2番手が自分からイジられにいく時がある。
これに強い違和感が生じるんだ。
勝俣州和はだからうるさいんだ。
峰竜太はアッコにおまかせ以外で見るとクドいんだ。
山田くんには座布団以外もはや運んでほしくないんだ。
 
 
 
重ねて言うが関西的なものやそういうポジションが嫌なんじゃなくて
それをさも当たり前かのように享受や拒否をする姿勢、そしてそれによってより当事者である関西マインド側が助長されるのが嫌なんだ。

パワハラ、セクハラ、モラハラだと
訴えれば訴えるほど
「これってハラスメントになっちゃうのかなぁ?」
って確認するギャグみたいなものが横行してゆく感じ。
面倒くさいよね。

  
 
それってなんか
闇落ちしたヒーローのようなもので
関西マインドってダースベイダー感がある。

実際は西の文化やコテコテなベタなギャグ
おじさんやおばさん的な存在や分かりやすい巨悪
あおり運転やカレーを目に入れる教師
ってあんまり自分自身と変わらないのだと思う。

 
 
なぜなら
前にも言ったが
関西のイメージを逆説的に作り上げた関東
の方にもなにか特別なものがあるわけでもないからだ。
ただの立地的なものであって概念としては延々と大平原が広がる無の土地だ。
つまり関東と関西の共同幻想は
無が別の無を産んでいるだけにすぎない。
無の不毛連鎖。無の螺旋階段。無の輪廻転生。

そう。無なのだ。

なので我々は
関西マインドをいじる時
無のたこ焼きを食らい、
無の通天閣を眺め、
無の大阪で生まれた女を歌ってるだけなんだ。

 
 
 
 
これは私の関西マインドに対する回りくどいdisだと捉えてもらってもかまわない。

 
 
 
なんで や ねん っ!