エレベーターが下の階に向かう瞬間
つり革に掴まって乗車している電車が進む瞬間
表面張力で保たれていたコップいっぱいの水が溢れる瞬間

慣性の法則
このふわっとする感覚
私はこれが怒りというものと近いと思っている。

例えば
びっくりした時って怒ってしまう。
驚いた勢いのまま状況を掴めずツッコミ的な事をしてしまう。
これは安定に対する執着心だと思う。
急激な変化が起きた時に必要な揺り戻し。

コンビニでカレーを買って
近くの公園で食べようと思って闊歩する。
袋が傾いてご飯の範囲にルーが侵食しないように底の方を持ちながら鼻歌が交じりながら。
いざ最寄りの運動公園に辿り着き しっくり来そうなベンチを探すために辺りを見渡す。見付かる。そして無事巡り逢い腰を下ろす。その時気付く。
スプーンが入っていないことに 。

この時の苛立ち
テンポの狂いはマグニチュードに値しやしないか?

なんだろう。
戻らないといけないとわかったその瞬間
今までのゆったりとした行動とその時間の掛け方が全部めんどくさいコトとして引っくり返ってしまうあの感じ。
なんとも思ってなかった店員の顔が嫌いになってしまうあの気持ち。

ただ今 全然違う状況でその経験を見つめると
そんなに、苛立つ事なくね?
とも感じてしまう。

怒りとはなんであろう。

防衛本能だとして
身の危険に晒された時の対象への威嚇、厳戒態勢だとして

今言ったカレースプーンの件は
なにに対する怒りなのだろう?

単純に店員のミスに対して怒ってたとしても
身の危険に晒されてる程では無い。
それに別に彼のバイト先の上司でもなけりゃ顔見知りのレベルでもないから積み重ねられる安堵感や警戒心は関係性の中にほぼ構築されない。
これぐらいの事は 今までもこれからも日常茶飯事だし、私もその立場だったら起こすであろうミスだから。

バックボーンがある訳でも無い。
カレーを買った時スプーンを必ず付けなければ神に罰せられる宗教に入信してはいない。
私の父が政治家で外交の席の時スプーンが無いがために手でカレーを食しその際左手を使った事でインド界隈から総バッシングを受け辞任をさせられたという経験も無い。
カレーにスプーンが付いていないというシチュエーションで性的に興奮してしまう絶対M感も持ちあわせてはいない。

なににムカついているのだろう?

こういうちょっとした事の方が混み上がってきてしまう。
人間が理性の動物であるならば
冷静な判断、客観的な視点は 怒り自体とは真逆な代物で 変化の機微は敏感でなければいけないと同時 全てにリアクションしていてもそれはそれで状況はままならない。

抑え込んできた激情は小さな穴から溢れ出す。

そう考えると我々は
「怒りたくない!」という理由で怒っている。

自己矛盾も甚だしいが実際
苛立ってる時、怒りを表明している時
「なんで私はこんなに怒っているんだ」と思ってるしその説明をする事でコミュニケーションを測ったりする。

大島渚の怒り方とかそんな感じだったと思う。
「なんで私は怒っているか」を怒りながら説明してた。
「最近の日本人は怒らなさすぎる」と怒っていた事もあった。

そう思ったら
怒りって面白いよね。

ちょっと腹の虫が収まってきた。

この落ち着きによって
またどこかで溢れるであろう怒りが後回し。
その事自体は滑稽であるといいのだけども。