チコちゃんに叱られるという番組で

日本の中心はどこなのか?

という放送があったようで

その結論が
「たくさんありすぎる」

だった。
 
 
 
そうだろうな。と思った上で
そのたくさんある中心地の経緯度を平均した地が「中心の中の中心」ではないか?と仮定し

それは「長野県辰野町」というところで

大城山という山の中。
 
 
 
そして番組が出した中心地は
もともと認定してた中心地から10mズレた位置。

そりゃそうだ。他の場所を合わせた平均値を出しているのだから。

 
ただ
なんと言うか
納得してしまう私もいた。
 
 
 
 

というのも 


真ん中っていつもズレてる 


と思うのだ。


 
というか
それぞれの視点によるものだから
当然個の数だけ中心が存在し
その不特定多数の総体が中央という
勘違いしやすいポイントなのだと思う。

要は皆 自分が中心なのだから
他人の視点を含めた客観視が
中央という不思議な概念を産み落とす。
 
 
ただ、
その客観視も自分自身がしてるんだ。

 
別にこれは警鐘でもなんでもない。
それをまた客観視してこの見方が出来る事が中央視点だと言いたい訳じゃない。
これは私のただの自分視点。
 
 
この世に数多溢れる知識、学識、常識は
どこかの誰かの個人的な感受性が起因であって
それを測る基準点みたいなものですら
どこかの誰かの昔勝手に思いついて言ってみただけのこと。
 
 
地動説の方がやっぱり間違ってて
天動説の方が実は当たってました。

という事も平然とあり得る。
 
 
イヤーキャンドルで大量の耳垢が取れてるのかと思ってたらただの蝋燭の燃えカスだった。

と同じくらい平然とあり得る。
 
 
ショーンKが経歴詐称していたこと自体が嘘でした。

という事も平然とあり得る。

 
荒井中がカラオケボックスをオープンしたけど入口が狭くて機材が入らず閉店した。

と同じくらい平然とあり得る。

 
騒音おばさんが実はおじさんだった。

という事も平然とあり得る。

 
恥ずかしながら帰ってまいりました。
が流行語になるほど終戦を知らされてなかった。

と同じくらい平然とあり得る。

 
 
 
この漠然とした人類至上主義的価値観の中で、我々が認知でき把握でき体得できる事などたかが知れているではないか。理解や社会や世界はあって無いようなもので だからと言ってそれに抗い歯向かいそっぽ向いてみても最終的に神の存在を疑えなかったデカルトよろしく私の中心が私であると私が感じ続けるかぎりその私の周辺の私以外の私達が中央という概念である事は紛れもないのだ。なにこの文章意味わかんない。

 
という事も平然とあり得る。 

と同じくらい平然とあり得る。