まだ電車に乗るのが楽しい。

沖縄出身だからか鉄道経験の乏しい私は満員の社内ですら
「これが かの有名な通勤ラッシュかぁ」と思える範囲内 。

ごちゃごちゃした空間に表れるいろんな人の顔色や服装、吊革広告や通り過ぎる駅名を見流すのは ドン・キホーテの店内をウロついてる時と同じような高揚感がある。例えの距離が近い。

 
 
ただそれもまだ
慣れてないからであって
日常風景の一部となれば飽きて窮屈に感じてしまうのだろう。

 
人間はわがままだ。
 
 
 
ぼんやりとしながら車窓から流れてゆく
ラブホテルや個室ビデオの看板を尻目に
私は この景色はセンチメンタルな気分になるにはいささか下衆すぎるな とか思っている。

その自己感情の切り取り方と
性欲を満たすためだけの産業PRの豪腕さは
どちらも寸分狂わぬ人間の業の肯定であるともいざ知らず。

人間はわがままだ。

 
 
 
まぁ、いいじゃないか。
そんなことは どうでも 。

 
どこかへ行く瞬間瞬間は無責任で楽しい
まだ着いてないから存在目的を探さないでいい。
向かう、辿り着く事が一代命題 なのだから
実際 そんなこと考えて移動してないし。

電車とか飛行機が良いのは
自分で運転してない ってとこだよね。
進行方向に前頭葉が介入してない。楽。
なにもしなくても時間さえたてばいつのまにか辿り着いている。
もう今日なに食べるかも決めてほしい。
チキンorビーフって聞かないでほしい。

 
思えばそんな感じの人生だ。
なにか自分の強い目的意識で突き進んできた道のりではない。
ただ漂ってきた。

振り返ってみれば
その振り返った首の運動で身体が反転しそのままその方向に流されてゆく
ぐらいの主体性だ。

道のりではなく同じとこでくるくる回ってるだけだ。
ただ周りはもう少し生きる目的があるっぽいので景色は変わってくれる ので飽きずにすんでる。
 
 
 

旅で思い出したのが
昔テレビで観てた番組でスペインのお祭りを特集してた。

なんかスペインにもねぶた祭りみたいのがあって
その地域一帯で何体もでっかいねぶたみたいな物をたくさん作って会場に並べて展示してて
1週間かけて投票でその年の一位のねぶたみたいな物を決めるらしい。

そして最終日に
その一位以外のねぶたを全部燃やす。

 

跡形も無く

すげぇ 燃やしちゃうんだ~
もったいね~
なんかこえ~

と思った。

それがなんか常に死を意識する事で情熱を高める刹那的な国民性の表れだ
とか解説してて なるほどなぁ と思いました。

なので スペイン行ってみたいです。

 
 
 
 
それで スペインの車窓からソープランドの看板を眺めて 刹那的な気分になるのでは…

 
人間はわがままだ。