3Dメガネをかけた思い出はありますでしょうか?

小学1~2年生頃、遊園地のアトラクションに乗ったとき。
宇宙船の設定で目の前のスクリーンから宇宙人やUFOが飛び出してくる事が謳い文句だった。

客席の椅子も揺れ動き 実際に船内に居るかのような臨場感が楽しめる代物。
私はその時、周りのリアクションが気になって辺りを見渡した。

大人、子供問わず
飛び出してきた3D映像に触れようと手を前に出していた。

その絵面が間抜けだったのを よく覚えてる。

 

実態の無いものを掴もうとする。
切なくも不気味であり抗うことの出来ない人間の本能を垣間見た気がして体感的には6次元くらいの重みがあった。
 
 

遊園地、子供の頃の思い出
というカテゴライズから ハンドルを横にきってみると
VRで見るアダルト映像もこんな感じか。

それを他人が楽しんでいる光景はなかなかお目にかかれないものではあろうが
おそらく私が幼少の頃見た遊園地での3Dメガネから飛び出した宇宙人を掴もうとしてる親子と見てくれは同じ様な印象のものなんだと思う。

 

結局、世界は視覚情報が占める割合が大きいとほとほと呆れ返ってしまうのだが
どうにも それだけでも無いなこの現象はと最近感じ始めている。

若い世代の子や、ちょっとオタク的な人、SNSを使いこなしているタイプ と話したりすると
いわゆるバーチャルな世界での横の繋がりが充実していたりする。

会った事の無い人達とオンライン上で仲良くなったりケンカしたりしてその実感が伴っている。
ゲーム実況動画を見て一緒にそのゲームで遊んでいるような感覚になりそれで満足してたりする。
現実社会で言えないような事を吐き出したりはたまた逆にバーチャル空間で受けたストレスを会社の同僚に愚痴ったりする事で人間関係が進展した気がしてそのまま結婚したりする。出会い系アプリで。

いや、現実社会という言い回しで区切るのが違う気がするくらい。

 

私はあまりゲームとかする方ではなくテレビデオの予約録画で手こずってた種類の人間だが
世代的に携帯電話を持ち始めたのが高校生くらいの年齢で
移り変わる世の中に対して半々の感覚の立ち位置だと思う。
駄菓子屋で100円払って30分だけがんばれゴエモンをやったこともある年代。

崖に落ちたエビス丸がもう一回飛び上がってきて残す断末魔がなによりのバーチャルリアリティで当時はあったし その時の部屋の薄暗さや湿気、友達の真剣な表情と店番のおっさんのおっかなさ、ひもグミの安っぽい味は今でも脳裏に焼き付いている。

ただこれとは別種類だと思っていたが 海外のYouTuberがスマブラにバンジョーとカズーイの参戦が決まった瞬間に狂喜乱舞する動画を見たときに抱いた「コイツら頭おかしいな」という感想は 本当に自分もその場に居てそれを見ているかのような人間の業の肯定を疑似追体験気味に味わったし その時パソコンの前で食べてたコンビニのアイスの食感は今でも同時に思い出してしまうくらい共に生々しく脳裏に焼き付いている。
その世代の子供達はそれが駄菓子屋的な思い出になるのかもなと容易に想像がつくくらい。
 

なんだろう。
そうなると、これでもいいんだ。という気持ちになる。
撈い上げたその欲求が指の隙間から溢れて元に戻ってしまうならそのままその海に自分が浸かり溺れる事を選んでるような。

決してなにかを見くびってる訳でなくて 。

 

この感覚は 視覚情報だけでなく
それに対して平面のみならず奥行きを感じ取れるか
むしろ嗅覚的な情報処理な気がする。

鏡を始めて見た猿はそれが自らの姿を映していると認識するまで時間がかかり警戒したり攻撃したりするそう。

 

はたして 

3Dメガネをかけて手を顔前に伸ばす人間や
VRを装着して下半身丸出しで自らを慰めている姿や
そしてそれを滑稽の対象として見つめる冷静であるかのような視点は


猿より高等な生物なのでしょうか?
 
 
 

ちなみに私は

なるべく男優の顔や声を排除してる 完全主観のやつが好きです。