映像の見えにくい文章を書いている。

回りくどく まどろっこしい
そういう言い回しを好んでいる。

自分の書いた このひとつ前の投稿を読んで思う。
無駄が多い。無駄。 しかも駄無駄。
文全体がだらしない太り方をしている。
だらっと ぼてっと している。情けぬわい。

なぜなのか。

ひとつは話言葉を選んでいるから。

ダラダラと喋るのが好きだ。
同じ話を違う言い方で何度もしたい。
喫茶店の窓際の席で対面に座る女性に これを聞いたからと言って明日から人生が変わることが全く無いどうでもいい話を小一時間したい。そしてその彼女の若干帰りたそうな顔を見ながら珈琲を飲みたい。

逆もまた然り。

そういう話を聞くのも好きで。

飲んで家に帰ってから 寝る前に少し酒を抜きたいなぁと思った時 某動画サイトに落ちている 上岡龍太郎が一人で一時間近くメディア論を延々と語っている動画を再生したりする。

もう何回も聞いてるし絵変わりがあまりしないのでそれを聞き流しながら寝るのに丁度良い。その時間がたまらなく好き。
他にもナマケモノの生体だけを教えてくれる動画や般若心経の解説、ジャズの変容など そういう小難しい題材を助長気味に喋っているのを聞くのがなんか心地良い。

なんなんでしょう。この嗜好。

おそらく私は物事をあんまりちゃんと見てない。
捉えてない。現実を受け入れたくないのかもしれない。

実際視力も悪い。

文字を使おうとするくせに あまり視覚を介そうとしてない、もしくはできない気がする。説明書とか長編小説とか読むと疲れちゃう。LINEでも面倒臭くなってすぐ電話しちゃう。

なのでそういう文全体の構成が がさつなのだと思う。
細かいニュアンスを伝える時ただ長くなる。

あと文章が太っているもうひとつの理由は
知識の幅の狭さ。
知ってることをただ言いたいから言ってるだけ。
こないだ知った雑学を言いたいおじさんになっている。
雑学と雑学を繋げるため間に文章を入れる作業をしてるに近しい。思いつきの中繋ぎ。衝動と自然の調和。民族音楽と同じジャンル。

そして オチがいつも一緒。

困ったらうっすらとした自虐。
使い古されたメタ視点。
死ぬつもりの無いリストカット。



ここまで書いて思ったことは

文章向いてない。

それに気付いてしまった私は
ふわっとした自嘲を残しスマホ画面に写った投稿の文字を押したのです。