距離感が上手く掴めない。

ほどよい遠近は人それぞれだと思うが

パーソナルスペース問わず

例えばキャッチボールをしてみてもグローブが上手く使いこなせずボールが溢れて重力に身を任せる。

これは 単純な運動神経の足りなさ。

 
 

っていう言葉の持つネガティブな印象を取り除いて

そこ

っていう響きだけにしてみるとなんだか妙な安心感を覚える。
 
 
箇所や場所を指す
そこ という言葉も
聞き手の近くを表す意味合いが
なにかを共有できてるかのような雰囲気が出ていて これがまた安堵感をそそる。

 
そこ

 
この説明要素が自動的に
相手や対象物の視点に立つ

という
コミュニケーションとしての第一条件を満たしているのではないか。

 
底 という状態は

自分から相手までの境界線を言い表しているのかもしれない。

 
 
私 という世界

とは 違う世界が広がっている

その中心点

を指して そこ と呼んでいる。

 
気がする。

 
 
「そこはか」という言葉は

「其処(そこ)は彼(か)と」という語源で

意味は「はっきりと」「場所や物事が明瞭なさま」である。

つまり 

「そこ」は「彼」だよ。

という意味だ。

やはり そこ で区切られている。

 
これに打ち消しの「ない」がついて

「そこはかとなく」という

「不明瞭ではっきりとしないさま」「なんとなく」という意味になる。

「そこ」は「彼」では「なく」

ということだ。

 
 
しかし 

ここからがややこしい。

「そこはか」は「なく」をつけなくても

「不明瞭ではっきりとしないさま」「なんとなく」という意味合いを表す事もあるのだそうだ。

同じ言葉で真逆の意味を表してしまっている。
 
 
おそらく

「なく」を着けるのがメンドくさくなったんだと思う。

そこはかとなく 嫌になったんだと思う。
 
 
あげぽよ、チョベリバ、わけわかめ とかと同じ類。

そのせいで黒ひげ危機一発が実は飛び出させた方が勝ちという公式ルールくらい反対の意味合いで広まってしまっている。

なんということだ。
どっちの意味合いが正しいんだ。

そのことこそがまさに

「そこはか」という言葉の

「不明瞭ではっきりとしないさま」「なんとなく」な状態であり、

そしてその顕著さとしてはかなり

「はっきりと」「場所や物事が明瞭やさま」 である。

めちゃくちゃややこしいですね。

 
 
 
私ちょっと思ったのは

底 は 自分から見た 底 なのであって
底 から 見た自分が 相手からしたら 底 なのだ。

その自分から見た底と 相手から見た底の
あいだの部分が紛れもなく「そこはか」であり
距離感であり 人によって感覚の違う
なんとなく存在している概念なのではないでしょうか。

あなたと私の「そこ」は「彼」
の部分が同じくらいだといい感じなのです。
 

だからけっこう

 
相手に関心が無い方が

 
コミュニケーションは円滑。

 
 
 
そこそこで行きましょ。