時間は夢を裏切らないなら

夢が「時間を裏切ること」だった場合

その夢はいつ叶ったことになり、また叶った瞬間にいつまでも叶わないことになる

のではないでしょうか。
 
 
 
と、ひねくれた価値観の提示には 松本零士もガン無視を決め込むと思うのですが
 
この「時間」という概念は

なんだか不思議なものだと思ふ。
 
 
物理法則だとか、自然科学だとか、そういった難しい話をしたい訳ではない。
もっと軽く時間と言うものについて思い巡らせてみたい。
なぜなら結局それは「主観」のひとつでしかないと思ってるからだ。
「時間」は「主観」。
そもそも完璧には共有できない。

 
喫茶店でコーヒーを飲むのが好きで

私にとってこれは「いい時間」

すごく、なんか いい感じな気分になれる。
 
 
ただおそらくコーヒーが好きじゃない人にとっては

あんまり「いい時間ではない時間」になると思う。

感じ方は人それぞれ。

 
逆に私はゲームセンターとかはあまり居心地よくない。

うるさいから。

闘争心とかもあまり湧かない。

あまり「いい時間」にならない。
 
 
でも好きな人は何時間でも居れたりする。

UFOキャッチャーやスロットを打ってる瞬間は「いい時間」なのだろう。

ここらへんのことはアインシュタインも同じ事言ってる。
 
 
 
たぶんなんだけど

「時間」を忘れられる「時間」が

「いい時間」な気がする。
 
 
つまり「時間」が「主観」でしかないのなら
それを「共有」するための「客観」が発生し
さらに「把握」するために「統率」が生じるために
「こんな時間だから寝なさい」「もうそろそろ結婚する年齢」「そんな時代ではない」
とか、めんどくさい言い回しが横行するんじゃぁないかね。
 
もちろん 時刻で管理されてるから電車は便利だし 平均寿命を算出するから健康も維持しやすい。
そりゃいい面もある。ただ物質的なメリットの方がでかいのかも。
 
内面的、精神的な部分に置いては「時間」感覚は共有が難しいのだと思う。
誰かのいい時間は他の誰かのいい時間ではないから。
言うなればそれは 「気分」。時間ではなく「気分」だから。
 
人生には終わりがある。
ということを知らなければ
もっとぼーっとできると思う。
それはいい時間であり、いい気分だよなぁ。
 
 
 
ひとつ例外として

時間を共有出来てる言い回しがあります。
 
 
もうお互いセックスする気が高まってる個体通しが

わざとらしく時計を見て言う「いい時間だなぁ…」

 
 
 
エロい気分は共有しやすい。