情報を遮断したい時 聴覚に集中すると
割と効率が良い。

厳密に言うと 文字を頭の中から排除する作業。
言語処理を破棄するために音階だけ意識してゆく。

皮膚感覚や味蕾感覚は普段から酷使を促される社会生活では無い。
嗅覚と視覚も環境調整出来るとしてそれらは除く。

考えすぎて疲れる。

こういった悩みめいたものは
ほぼ 情報処理のオーバーワークであり それは言語処理能力の酷使だと思う。

たまにある

「あ、この人 話長いな…」

と思ってからの 聞き流し。


あの時私は完全なる 無。

もうリズムでしか相槌打ってない。
同じ事を何度も言うタイプであればなおさら。
2巡目だ と感じた瞬間からこちらサイドもパターン化が生じるのは防ぎようが無い。

ほぼ全く別の事考えてる。
説教系なら「早く終わんねぇかな」だし
悩み相談系なら「この人ほくろの数多いな」だし
面白い話してる風なら「どんなセックスで生まれてきたんだろう?」だ。

私もこの文章から拭えぬ様に
長い話がするのが好きなのだが私の場合
例え抽象的系だ。

漠然とした話が好きなんだ。
とりとめのないどうでもいい雰囲気だけの話。
導入がどうであれ自分が感じたふわっとした事を思い付きで言う。
次話す時は全然違う事を喋る自信がある。

これが説教系というか具体的派とは相性が悪い。
「なにが言いたいの?」ってめっちゃ言われる。
別に言いたいなにかは無い。
というかなにかであれば全て言っておきたいぐらいだ。

道案内が苦手だ。
有名人で言うと誰に似てる?トークも難しい。
おそらく食レポをしたら味表現が乏しいと思う。

具体派はそこらへんの話が多い。
物質的側面を重視してるからか。

これは偏見でしか無いのですが
腐女子、ドルオタ、ONE PIECE歌舞伎、記者会見を叩く人、筆下ろし系AV は全部具体派のジャンル。
関係性に快楽を見出す感じ。

あとたぶん長嶋茂雄は抽象派。
説明に擬音が多いから。

ちょっと一方的な物言いが溢れましたね。
なので話を戻しますと
具体派に説教食らったりした時 私は完全なる無になるのだ。

これが無我の境地か

と思う。

熱い話になればなるほど 悟りが開いてく。
言われた瞬間から忘れてく。
説教をしている相手と同じ時空間にはいない。
あなたが同じ話を何度も繰り返すように おそらく私もそのミスを同じように何度も繰り返すであろう。
この世は輪廻転生。

大気中に放たれた無数の音階は鼓膜を響かせ脳に電気信号を届けた段階で役割を終える。
その情報は幾多の解釈を経てまた私の口から言語として発せられる時には既に最初の意味合いとは変わってしまっているしそれは掴みようと途方もない関係性の構築という名の 無の積み重ねだ。これはどうせ死ぬからと言う思想よりはむしろ今がまさに無であり今までもこれからもそう。という観念だ。無 に 意味は 無い 。

そんな事を感じていたら

「お前は話を聞いて無い」

と 怒られた。

そして またさらに 話が長くなる…