76年前の「不急不要な~」の時代に、東京から山口県や九州に旅行に行った人の話

※引用は全て、「宮脇俊三著 時刻表2万キロ(河出文庫)」からです。

 美祢線は山口県西部を南北に横断する四六・〇キロの線で、これに乗るのは昭和一九年の春休み以来、三二年ぶりであった。あのころは「不急不要の旅行はやめましょう」の標語が各駅に貼られ、瀬戸内海の海際を走るときは窓の鎧戸を閉めさせられたりした。軍艦が見えるからだというのだろうが、いまとはくらべようもなく威張った車掌が、乗客を叱りつけるようにして励行させていた。

言わずもがな、タイトルの人とは宮脇俊三先生の事です。

今の騒ぎ、亡くなってしまった人も大勢いますし、なるだけ行動を控えて、感染拡大を防止すべき、というのはとてもよくわかります。

しかし、個人的な考えを述べてよいのならば、

「恐怖におびえているだけでよいのだろうか?」

とか、

「不安やパニックのあまり、必要あるかどうかわからないものを買い込んだりすることが果たしてよいことなのか?」

などと思ってしまうのです。


そこで今回、宮脇先生の著作から、「いかにして、この危機的な状況を乗り越えるべきか?」ということを考えたいと思ったのです。


宮脇先生が前回の不要不急の時代を経験したのは、昭和19年。

時代は太平洋戦争(第二次世界大戦)の真っただ中で、冒頭の引用した文にも表れているかもしれませんが、とても厳しい時代だったことは間違いないようです。現代とあまり変わりがないかもしれません。

しかし、宮脇先生はこう述べておられます。

 けれども、岡山から先に行ったことのなかった私は、関門海底トンネルを通ってみたかったし、秋吉台や阿蘇も見たかった。発売を制限されていた長距離の切符を苦心して手に入れ、リュックサックに米と握り飯を大量に積めこんで、まず小郡から木炭燃料のバスで秋吉台へ向かった。米と握り飯を用意したのは、米がないと旅館は泊めてくれず、駅弁など売っていないからであった。
 坂道にかかるとストップする馬力の弱い木炭バスを、乗客全員で後押ししたりして、秋芳洞に着いたが、米を持っているのに旅館は泊めてくれなかった。やむをえずバスで吉則へ出て、厚狭まで美祢線に乗った。吉則はいまの美祢である。そのあと夜行で熊本へ行き、阿蘇、大分、小倉と回ったが、どこも学生服姿の私を泊めてくれず、三日連続の夜行となり、帰途は立ちんぼでさすがに疲労した。帰宅したときは盲腸炎にかかっていて早速手術したが、少々手遅れだったので難航し、命はとりとめたが大きな傷が残った。


私の個人的な考えですが、今の状況を乗り越えるのに必要なことを一言で言うと「好奇心」だと思います。


不急不要の旅行はやめましょうという標語が駅に貼られていた状況は、まさに今と変わりませんが、それでも宮脇先生は行ったことのないところに行きたい、見たいものを見たい一心で、発売を制限されていた切符を苦心してまで手に入れ、旅行に出かけたわけです。



個人的な好奇心が、宮脇先生を動かしたのではないだろうか、と。




とても不謹慎なことは承知しています。

命を守ることより大事なことはないことも、わかっているつもりです。

しかし、危機に対して身を縮こませているだけでよいのだろうか、と思うのです。


宮脇先生も、帰宅後に病気にかかってしまいましたが、危険な状況下の旅から帰ってくることができ、翌年日本は終戦を迎え、その後の宮脇先生の活躍ぶりは説明するまでもないでしょう。


進んでリスクを冒す必要はないと思いますが、現在の状況に違和感を感じてしまうのです。

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