感情による支配ごっこ 主観による統制ごっこ

誰かと会話をする。毎度自らの人生の彩度と明度の低さを実感する。自らの過去や思考を晒さねばならない場面ほど、その煤けた暗い生き様を理解せざるを得ない。自己啓発本なら楽観を良し、悲観を悪しとした二元論を説くだけである。それで救われる人がいるならその効果はあると言え、実際に精神論を説く(自称を含めた)成功者をメディアやSNSでは多く見かける。その推薦図書を見て、その成功の真偽を一定程度は見分けることができる。

自分にとって都合の良い理論を並べるだけの根性論を大いに好む者。それが組織において部分最適を追求すれば、全体最適は実現されない。自ら説いた理論は、夕刻には(その者の)記憶からは消滅し、その正反対が説かれる。その齟齬を指摘する者は組織の反逆者として処されていく。提唱者の記憶とともに、組織としての明確な区切り(始まりと終わり)が存在しない。コンセンサスなく終結させ、さもすべてが無かったかのように振舞うことで、その責任の所在を霧消させることができる。あらゆる記録よりも(都合の良い)記憶と解釈が、万能無謬の論拠となる。外的環境の変化に起因する変更ではなく、特定の誰かの感情や衝動によってルールは容易に書き換わる。

記録より記憶。存在が認められるのは唯一の解釈である。一方には天国であり、他方には地獄となる。資本主義社会における組織の目的とは利益を上げることだが、時に任意の誰かの自尊心を満たすことにすり替わる。組織の統制と効率の不足を嘆く一方で、その要因が自らにあることから目を背けたままでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?