組織を機能不全に至らしめる何か

仕事であろうがなかろうが、身の回りにはあらゆる失敗が存在する。失敗とまでは言えない手前のものを含めればその数はより膨大になる。あらゆる人が失敗を経験し、何かを変えようとする。
時として、何かを変えようとする感情は「誰を絞首台に送るべきか」を真っ先に議論させようとする。今まさに吊られようとする人に対し、反論のための時間や機会が与えられることはほとんどない。誰かを縊することが失敗から立ち直る唯一の術であると信じることは、自らの潔癖を証するために最も有効であり、根源的な欲求を満たす手段である。

組織として何かを達成しようとし、乗り越えようとする場合において、主導者自らがこのような手段を行使することがある。修士課程を修了し、先進と信ずる欧米諸国に留学し、数多の自己啓発本を読みながら、結果を無視してはまた新たな失敗を生む。教訓を得るのではなく、寧ろ都合の悪い自分の過去から目を背けるためのインプットに走る。いつしか自己啓発本は他を罰し矯正すると同時に、己が過ちを無視し、正当化するための道具となる。

誰かを従える立場にある人はすべて失敗から学ぶことが当たり前にできる訳ではないことを知る。長くその職にあろうが、規律の徹底、動機付け、戦略・戦術のいずれも機能させるだけの力量もなく、組織を崩壊に至らしめんとする。これはその人物が自滅を望むからではなく、その置かれた環境で発揮できる能力の限界を示す結果に他ならない。時として字義通りにinnocentを体現し、その振る舞いはどこかの誰かに多少の罪を被せることができる。

人を吊ることは人間の根源的な欲求である。HSPを自称し、あるいは苦労話を垂れ流す者ほど容易に他人を吊る。教訓から目を背け、都合の良い者を吊ることが真のリカバリであると信じて疑うことはない。

「救いや報いが必ずあるなら天国は不要」

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