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日記やメールは伏線

たまになのですが、過去に書いたブログや知人に送ったメールを見返しています。
そうすると、そのときには分からなかったこと、そのときにとりあえず突き動かされるままに書いたことが、後になって読み返した時点で「あー、そういうことかぁ」と思うんです。

特に、ここ数年は色々変化が大きくあったので、過去3年くらいに書いたものを見返すと色々思うことがあります。
書いているときは分からなかったことが、今になって「これはそういうことだったのかなぁ」と。

だから書き留めておいた方が良いものもあったのでしょうけど、何が何だか分からなくて書いても消してしまったものもたくさんあります。

でも、そう思うと残されたテキストはきっと今の私の精神にも作用するために残されてると思いますから、消してしまったものはそれはそれで、また導きがあっての削除だったのだと思うことにしています。

ここ数年は本当に変化が大きく、自分の中で混迷が続いていてストレスも強い日々を過ごしていましたが、最近漸く落ち着いて来ました…多分。

できれば日々を明るく過ごしたいですが、混迷の中にある人はたくさんいると思いますので、自分ばかりが幸せであるように願うのではなく、本当に苦しみの中でもがいている方々のために祈る、その「心の静けさ」を第一に大事にしたいです。

私はカトリック信徒なのですが、カトリックの祈りの中に「夜の祈り」というものがあります。
1日の終わりに祈る祈祷文です。
その文の中に「私が幸福の中にあっても困っている人たちのことを忘れることがありませんように」という部分があります。
本当にこの部分は大事で、自分が恵まれた環境にいると色々と世界には困難な状態にある人たちが大勢いることを忘れがちなのですが、毎晩この祈祷文を祈ることで自分の心を引き締めることができます。

話は日記やメールのことに戻りますが、このような祈る生活を始めるプロセスがここ3年くらいの自分のテキストに記されており、それを見返すことで「初心に帰る」ことができます。
カトリック信徒になるまで様々な困難がありました。
カトリック信徒として生きていられることを当たり前だと思わず、天の父に感謝しながら頑張って行きたいです。

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