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知多四国八十八霊場巡り ぶらぶら歩き(第二回)

先日、第一回の巡礼を結願したところを投稿しました。
今回からはいよいよ第二巡目、前回祈願のお礼参りの巡礼です。

今年は異例の早さで梅雨入りが発表された愛知県ですが、梅雨の晴れ間の5月某日に第一札所の豊明市曹源寺からスタートしました。

01_1番_曹源寺

曹源寺から大府市横根町に向けて北崎町を歩いていると、先の大戦でグアムで苦労なされた方の碑が残されていました。必死で生き延びた事を伝えたかったようです。

05_大府北崎_碑

横根町の二番札所の極楽寺に着き、そこの石柱に「是ヨリ一番へ廿七丁、三番へ三丁」と刻まれているのを見つけた。この度量衡を調べてみると、一尺=0.3m、一間=1.81m、一丁=109m、一里=3927m。
確かに家を建てるときは三尺(半間)をベースに設計されているし、押入れやクローゼットの幅は一間のものが多い。故に家具も尺単位で作られているものも多く、昔の単位もまだ生きていますね。

07_2番_極楽寺_石門

以前、僕の子供がまだ小さい頃、大府市横根町に住んでいたことがあり、よく子供と散歩して幾度となく通りかかった三番札所普門寺を巡拝しました。

08_3番_普門寺

この後、国道155号線沿いに5.5kmほど歩き、四番札所延命寺と六番札所常福寺を巡りました。
常福寺の後は、「あいち健康の森公園」を抜け、東浦町七番札所極楽寺を目指します。

12_大府健康の森

極楽寺のある森岡には、織田信長と今川家が戦った「村木砦」があるので立ち寄りました。
村木砦は、1551年今川義元が強敵織田信秀の死後に鳴海城、大高城、沓掛城が織田家から今川家に寝返ったのに続いて、織田方の緒川城を攻略するために築いた砦です。場所はJR武豊線尾張森岡駅の北にあり、戦国時代には知多湾に注ぎ込む境川河口に広がる衣浦の海岸にある村木の岬に位置します。
1554年緒川城主水野信元は織田信長に援軍を求め、信長は熱田港から渡海し緒川に入り、織田・水野連合軍が砦を攻め、激闘の末今川家が降伏し、砦を堕としたそうです。この戦いで織田家と今川家の間では、第一次・二次小豆坂の戦いから数えて織田家の二勝一敗となりました。この後1560年に信長が鳴海城と大高城の周囲に五つの砦を築いて、この二つの城への今川家からの兵站を分断したことで、織田家との決着を付けるために今川義元自身が桶狭間の戦いの陣頭に立ち、討たれた歴史に繋がります。

21_村木砦

村木砦を後に八番札所伝宗院を目指し、緒川方面に向かいます。

24_8番_伝宗院_

伝衆院を巡拝し、旧師崎街道を歩いて緒川城址に向かいました。
緒川城は1487年から130年間水野家が居城とし、徳川家康の御母堂「於大の方」の生まれた城です。当時は衣浦を挟んで刈谷城も支配して西三河地域を治める武家でした。

25_緒川城址

この後は微妙なカーブが昔の街道を偲ばせる旧師崎街道を南へ進み、九番札所明徳寺、拾番札所観音寺を巡拝したところで雨が降る予報になったため、本日の遍路歩きを終了し、次回に楽しみを残しました。

29_旧師崎街道

第二巡目、初日終了。

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