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ルワンダに渡ったスポーツチャンバラ8(2、3回目のルワンダ大会と組織の新体制)

前回までのあらすじ

2013年に本業の国際協力の業務でルワンダに行き、そこで知り合ったカンフーチームを率いるベンジャミに出会い、ルワンダにおけるスポーツチャンバラが始まりました。ベンジャミンはこのスポチャンという新しい武道に可能性を見出し、カンフーを止め、スポチャンの団体を立ち上げます。同年、合計7ヶ月間の滞在後、私はルワンダを去りますが、ルワンダのスポチャンは、それ以降も活動を続け、メンバーの数を増やしてゆきます。そして、2014年には、第1回の大会が開催され、私も運営や審判指導のために1週間ほど、ルワンダを訪問しました。

第2回、第3回ルワンダ大会

2015年(2回目)と2016年(3回目)にも、ルワンダでスポチャンの大会は開催され、年々、大会の参加者は増加しました。そのため、2014年の大会は選手の総当たり戦の勝ち数で勝敗を競いましたが、それ以降はトーナメント戦としました。また、1回目と2回目の会場は、キガリの中心地から遠く離れたカブカという場所の公民館でしたが、3回目はキガリの中心地から近いキミサガラ地区のスポーツ施設の体育館が借りられました。また、3回目では、参加選手数が多いため、トーナメントの組み合わせの管理に専用のパソコンソフトを使うまでになりました。それでも進行はあまり上手く行かず、最後に予定されていた幼年の部の試合は断念せざるを得ませんでした。また、3回目では、子供がスポチャンを通じて逞しく成長した会社の社長がメダルやトロフィーなどを援助していただくなど、ぼちぼち、ルワンダの社会の中でも、スポチャンの存在が認知されるようになりました。

新たなキーパーソンの登場

2015年にルワンダを訪ねたとき、ベンジャミンの仲介でルワンダのオリンピック委員会で働く若き官僚であるジャン・クロードと会いました。彼は、和道流空手を修め、小柄ながら良い動きをします。初段のテストとして、小太刀5人抜きに挑戦した際には、それまでの挑戦者の中で最短時間で終わらせた程の実力を持ちます。また、元々の専門はコンピューターサイエンスなので、SNSによる発信はお手のものです。彼のお陰で、スポチャンはルワンダにおいて広く認知されるようになりました。また、スポチャンのイベントでアマホロ国立競技場を会場として使えるようになり、また、そのような時には多くの新聞やテレビのメディアに露出されるようになったのも、彼の尽力によるものです。そして、今、ルワンダスポーツチャンバラの組織にとって、会長のベンジャミンと共に、ジャン・クロードは事務局長として欠かせないキーパーソンとなりました。

空手家達の合流

ジャンクロードがスポチャンを始めたことがきっかけとなったのか、その後、多くの空手家がスポチャンに合流しました。以前のノートにも述べましたが、スポチャンと空手は、両方とも打撃主体の日本の武道という共通点があり、兼修する上で相性が良いようです。また、空手はルワンダにおいても歴史が長いため礼式などがしっかりしており、ともすると自由な雰囲気に流れ過ぎてしまうスポチャンに良い意味での影響があります。また、空手から見ると、柔らかい武器で相手を思い切り打てるスポチャンによって、打撃の技術を深く研究することができます。こんな相性の良さと相互補完性が相まって、空手家達の活躍は今後も、益々、期待されます。

おまけ(その後)

2016年の大会の際にルワンダを訪問したのが、私にとって、日本からルワンダへの最後の訪問でした。同年の10月には今の仕事を得て、ケニアに赴任しました。その後は、年に数度、週末プラス1日でケニアからルワンダに通うようになり、先月(2019年3月)も訪問しました。

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