見出し画像

日記(2022/08/22-24)

月曜日。退勤後、北千住ブルースタジオへ。天井が高い!スクリーンも上の方、手の届かないような位置にある。映画を見るとき、画面を仰ぎ見るのが万事において良い。PCのモニターで映画を見ることはなく、それは画面の小さいこともあるが、それよりも映画を見下ろすかたちになるのが、どうしても映画を見る経験にそぐわないと思っている。仰ぎ見ると言うと少しばかり宗教性が伴うが、映画を見るという経験の儀式性を、それが有った無かったに関係なく、取り戻したいという思いがある。『映画はおそろしい』という書籍がいま棚の目立つところに刺さっていたりする。ダニエル・シュミット特集『書かれた顔』見た。シュミットは映画館で見たときと自宅で見たときの感じ方の落差が激しい、映画館で見ないと何にもならない。『ラ・パロマ』『デ・ジャ・ヴュ』も自宅でしか見たことないから微妙な反応しかできないのが悔しいと思い続けている。劇場でかかったら絶対に行かなければならない。渋谷にVHSあるから……などと言ってはいけない監督の最たるものかもしれない。

火曜日。退勤後、彼女と下高井戸シネマへ。レオス・カラックス特集『汚れた血』。もう五回は見ているが見るたびに「こんなカット、シーン、セリフあった?」と何度も思う。そのくらい覚えていない。場面やカット割りの順番もあやふや。常人の思考で撮られたものではないから記憶を拒む、ということがある。この次にこの画面が来る、というような、映画に慣れ親しんだものが無意識におこなっている予想を、ことごとく無視する。当てに行く行為であるがゆえに予想には常人の思考がつきまとう。おのれの平凡さと非凡な画面との摩擦のショックに耐えきれず、映画の記憶能力が一時的にやられる。再見するときにはいつも「またこんなにも忘れている…」と自らに落胆する。カットが移り変わるごとに毎度驚嘆せざるをえないが、それを記憶することは滅多に許されない。驚きの印象だけがあとに残されて、何に驚いていたかは全くもっておぼろげにさせられる。ラストでジュリー・デルピーがオートバイのエンジンをかけようと力を入れるとき、たまらず泣き出しそうな顔に一瞬なる、そのことは半年前に見たときハッと気づいて、ここは今回まてその記憶が残っている。

水曜日。在宅勤務。昨日『仮往生伝試文』読み終え『槿』読み始める。退勤後、蕎麦を食べたいと思って、しかも家で相席食堂を見ながら食べたい、わざわざコンビニ各社を比較してコンビニ蕎麦事情をふまえた上でローソンに行く。往復15分くらい散歩。古井由吉読んだその目で天気を見たり街の匂いを嗅いだりすると敏感になっているのが分かる。ブレッソンの映画見たあととかもこうなる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?