自分が好きだ

深夜0時。

風呂に入る準備をするために洗面所へ向かった。そしたら、鏡の中の自分がめっちゃ笑ってた。
文章にするとなんか怖いな笑 怖い話ではないです。

無意識のうちにすごい笑ってて(にやけてるの方が近いかも)気付いたら鼻歌を歌っていた。フフフーン、めっちゃご機嫌じゃん。私。

なんか嬉しくなっちゃったんだなあ

私が私を認めてきている。
うららはうららのままで価値があるんだよ、って思えてきている。

これまでの私は、大した根拠もなく理想を作ってて、理想から遠い自分に焦っていた。

3ヶ月くらい前から環境が変わって。関わる人が増えて。すごい人、おもしろい人ばっかりに出会って。新鮮。色んな人の話を聞いて、全部「なるほど」って思えて、「すごい!」「面白い!!!」ってめちゃくちゃに思った。出会いって面白いし、なんて素敵なんだろう。そんな人たちを、いいなあ、素敵だなあ、と思って。もっと知りたいと思った。沢山他の人に自慢したし、どこかで、どうしたら自分も、って思ってた。

でもね、そうした人の話を聞きながら、相手にとって私と話してる時間ってもったいないんじゃないかなあ、とか思ったりもした。(話聞いてるときは楽しすぎてそこまで考えてないんだけど、話を聞く前とか後とか、特に前)
なにもしてない私なんかと話して、私はもらえることがいっぱいだしめちゃくちゃ楽しいんだけど、相手にとってはただgiveしているだけで、私と話して何も生まれない、win-winの関係じゃないよなあって。

私と出会うことで、私にとっても相手にとっても何かプラスのものが生まれて、出会えて良かったと思ってもらえるような人になりたいと思った。今でも思っているのだけれど。

だけどそうなるには問題が二つあった。本当はまだあるかも。少なくとも私が気付いてるところ。

一つ目は、私がこれまで何もしてきていないこと。何もしていない自分、肩書がない自分、何にも属していない自分、そういう自分をつまらないと思った。つまらない人間だと思われたくなくて、だから、何かに属している自分、何か活動している自分、そういった目に見えるような肩書きを作ろうとした。特技や、実績などが欲しかった。結果を残したかった。自分の価値を創り出すことを求めていた。すごい人と繋がって、繋がっているという自分に価値をみつけてみたりもした。難しい言葉とか、形式に則った文とか使おうとして、着飾った私でいようと思ったり。そんなんすぐボロが出て無理だったけど。
とにかく、なんとなく焦っていた。

二つ目は、自分の意見や考えをはっきり言えないこと。はっきり言いたいとは思うんだけど、「この考え」って断定してしまうのはよくないよなあ、とか、私なんかの考えが正しいなんて思えない、とか、これ言ったら嫌がられるかな、とか。色々考える。こうやって、私の考えをくすぐってくるのが、先週あんなさんと発見した「うらうらら」の存在だ。うらうららは、一つの考えが出たとしたらそこに不安要素を沢山ぶつけてくる。 
その「純うらら(仮名)」と、「うらうらら」の対話の時間がなんとまあ長い長い。これが正しいとは思うけど、うらうららの言うことも確かにそうだ。だから、自分の言った発言に責任持てないよなあ。何か発言しようとして、「あ、」って言いかけるんだけど、すぐうらうららが出てきて、違うかも!って思って、「うん」って、言いかけていたことをやめてしまうことが多い。

そんなんだから、自分の考えが全く定まらない。急いで答えを出そうとすると、いつも曖昧な感じになる。とんちんかんなこと言ってしまったり、考えていることの1割程度のことしか言えなかったり。考えても、何が正解なのか結局分からなくなって、変に同意して相槌しか打てなかったり、何も発言できなかったり。特に3人以上で話をしている時は聞いていることが多い。話を聞いて、それについて考えている間に話が進んでいって、例え何か考えが定まって発言できる状態になった時には、違う話題になっている。

うん、発言することが苦手だ。自分が発言するとか、自分の話が長くなることとか、すごい申し訳なく思ってしまう。話しすぎてしまったな、って時には一人反省会を開いている。それよりもほかの人の話が面白くて、それを聞きたいと思う。

だから、対話ができる人、自分の考えを持っている人、伝えている人にすごく憧れている。私もそうなりたい。

先週、わらじ荘に行った。
そこには素敵な荘民がいた。
人の話を聞くのが本当にうまかった。気付いたらポロポロと悩んでいたことを相談していた。全集中で私の話を聞き、私の内面を引き出してくれた。アドバイスをくれたわけではなかった。何か教えてくれたわけではなかった。共感してくれたわけではなかった。ただ、ずっと問い続けてくれて、私の内面にあるものを可視化してくれた。その時、この人は今の時間、私に興味を持ってくれている、と感じた。あんなにほかの人と、自分(うらら)に向き合ったのは初めてだった。これまでは自分の話をするのは申し訳ない、と思いがちだったんだけど、彼らと話しているとそうは感じなかった。面白がってくれた。はじめての経験だった。

以前、「私なんか」って使っていることに対して、「それは自分を守っているだけで、誰のためにもなっていないよ」と言われたことがある。(これまで何か指摘されたときには、ああ嫌われたかも、って思って自信をなくすことが多かったんだけど、その時は、すっごくすっごく嬉しかった。自分の引っかかっていたところがするっと抜けた感覚がした。感謝の気持ちでいっぱいになった。指摘されてこんな気持ちになったのは初めてだったかも)それから自分を守る、とか、自信が持てない事とか、自分の価値について深く考えるようになった。それについて話すと長くなっちゃうから今日はやめておこう。

何かこれまでしてきた人の中に、何もしてきてない私が入るの躊躇する、ということを相談したら、「何かしてきた人ばかりいるとしたら、その人たちにとって何もしてきてないうららちゃんの考えって求められているものかもしれないよ」って言われたことがある。素の自分の考えに価値がある、かもしれない。その時はなるほど、と思ったけど実感わかなかった。

最近、文を書くことが多くなった。難しいこと分からないから、難しいこと書こうと思ってもうまく書けない。良いこと書こうと思っても結局それは背伸びしているだけだからうまく書けない。
素のうららの思っていること、感じたことをそのまま書く、でしか表現できないから、そうやって書いている。そうやって自分の感情のままに書くのは楽しかった。そしたら意外にそれが好感触だった。ああ背伸びしなくていいんだ、着飾らなくていいんだ、素のうららのままでいいんだ、それを面白いと思ってくれる人がいる、それに価値があるって認めてくれる人がいる、って思えた。すごく嬉しかった。


周りがすごい人ばっかりだったから、自分を良く見せようと必死だった。だけど、素の自分でいいんだ、って思った。勝手に作った理想を無理に目指さなくてもいいかもしれない。

自分の価値は創るものではなく、みいだすものなのだろう。と思った。

そう思ったらなんだかうらうららの存在も良いなあと思えてくる。うらうららも含めてうららだから。

自分が何か与えられる人になりたい、と思っていたけど。自分のやり方で少しずつやっていけばいい。
自分が満たされていなかったらほかの人を満たすことはできない。まずは沢山吸収しよう。そうやってだんだんタンクがいっぱいになってきて、最後の一滴が落ちた時に、ドバァって溢れる、らしい。
楽しいことに、やりたいことに素直に。
時々漏らそう。ゆっくりじっくり進んで戻って悩んで休んで、止まって。まずはじっくり自分に向き合ってあげよう。焦んなくていいんだなあ。

これからいろんな人にあって、いろんな出会いをして、どんどん変わっていくかもしれない。これからのうららが楽しみだなあ。

なんだかまとまってないな。

自分の気持ちがだんだんみえてきて、なんとなく嬉しくなっちゃって、気づいたらここまで書いてました。3日かけて書いてる笑

私は人の話をすぐ、まに受けます。割となんでも信じます。褒められるとすぐ嬉しくなっちゃいます。単純ですね笑
なんでもないことでも勝手に、私のことかも、と思って落ち込んだりします。
もし、もしも、これを読んでいる人の中で、私みたいに色々感じやすい人がいたら、もしもこれを読んで自分を否定されたように感じて落ち込んでしまう人がいたら、そう思わせてしまってごめんなさい。だけど、どうかそう思わないで欲しい。いろんな生き方、考え方があって、それでいいんだ、って事を最近知りました。何か正解があるわけではないし、その時々で変わっていい。
だから、あなたはあなたの生き方、考え方でいいし、私はそんなあなたが大好きです。
(気づいたら自分への励ましの言葉になっていました)

これ、noteに出すかどうかも、めちゃくちゃ迷ってる。公に出して、こんなやつだったんだと幻滅されたらどうしよう。嫌われたり、つまらないやつだと思われたらどうしよう。それは違うよと批判されたらどうしよう。「うらうらら」が不安がってる。でも、どうやら今回の勝負、「純うらら(仮)」の勝ちだ。

ここまで読んでくれてありがとうございます。
そして、いつもありがとうございます。

ちょっと恥ずかしいから、ここでの内容はあんまり触れないで欲しいです笑
うららってこんなやつなんだな、へー、くらいに思っといてください笑

おやすみなさい。

あーーーTOEICの勉強しなきゃ。

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