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ピーナッツバター

ピーナッツバターって自分でつくれるみたいよ、私はiPhoneでレシピを読みながら店主にいう。彼女は焼き上がったりんごのケーキをオーブンから出して、えーどうやって、ときく。ピーナッツを十五分ローストして、それからフードプロセッサーでペーストになるまで攪拌するんだって。バターは?バターは元々入ってないものみたい。私は画面を閉じて、つくってみようかな、と呟く。隣の空き席には、私が着く前に焼き上がっていたパウンドケーキが二台置かれている。コーヒーと胡桃。ほろ苦く香ばしい匂いを吸いこむ。冷めてしまったお茶に口をつけていると、カラン、と扉が開く音がする。振り返ると、いつもの常連男子がひょっこり顔を出している。こんばんは。寒いねー。ひとつ空けた席に座った彼は頬が真っ赤だ。シンクで洗い物を終えた彼女が振り返って、ナポ?ときく。彼は頷く。え、今のなに、かわいい!ナポリタンのこと?私はいう。かわいいですか〜?彼女はにこにこしながらフライパンを出してオリーブオイルをたっぷりひく。この前は遅くまでありがとね、私は彼にいう。ジャズピアノのライブを皆で聴いて、そのあとふたりで深夜のバーに寄ったのだ。プラトニックラブの話、面白かったですよ。あの環境の中で。彼はにやりとする。常連客たちがフィジカルラブの話で盛り上がる中、バーのママに私たちはプラトニック派、と断って、ふたりでひそひそと話していたのだ。いっそもう、触れなくていいくらいなのよ、と私はいった。わかりますよその感じ、彼は同意した。ナポリタンが運ばれてくる。熱い湯気、ケチャップの匂い。いただきます、彼がフォークを手に食べ始める。さっきも話したんだけどね、この前、今年に入ってから一番嬉しかったことがあって。私がいう。へえ、なんですか。彼がきく。私はエピソードを話し始める。約束も待ち合わせもしていないのに、バーで大好きなひとにまた会えたこと。その彼が、今日CD持ってきたよ、と私に数枚のCDを貸してくれたこと。その中には、三週間前にラジオで偶然流れてきてから何十回も聴いた曲のシングル盤があったこと。持ってたんだ、と私がいうと、うん、と彼が頷いたこと。向かいで店主の彼女が、なんか照れる、という。いいっすねー…隣の彼がしみじみする。出張続きで多忙な彼が、自分が持っているCDの中からわざわざJamiroquaiなかったかな、と探してくれて、その夜来るかどうかもわからない私のために持ってきてくれた。その行為がね、もうどうにかなりそうなくらい嬉しかったの。私はいう。CD探している間は…さんのこと思い出してたわけだもんね、隣の彼はいう。私は頬杖をつく。でもそんなことは相手にもちろんいえないから、純粋にCDがものすごく嬉しいって形でお礼をいったけどねー。店主の彼女はアイスコーヒーを細長いグラスに注ぎながら、そこが切ないですよね、という。にしてもさ、…さんのピュアっぷりがすごすぎる、信じられない。そういって彼らは笑う。自分でもそう思うよ。私は答えながら、その笑顔は包み込むように温かくて、こんな風に日々のことを話したり笑いあったりできるのは幸福なことだと思う。もし私が楓の彼にできることがあるとしたら、こういうことなのかもしれない。なんとなく最近考えていることや出来事を話して、ふつうにリラックスして一緒にいられること。嬉しいことは一緒に喜んで、たまに弱音をはいたり、励ましたりちょっと叱ったりする。そうしているうちに心の中にある泉がいつのまにか満ちていて、あぁ今夜も楽しかった、また会いたいなって思うようなこと。ナポリタンを食べ終えた彼に、彼女がアイスコーヒーをそっと出す。私はグレーのストールを首に巻いてうーん、と伸びをする。そろそろ帰ろっかなー。

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