ドラえもんはいらない

小学生に「遊んでぇ」と誘われ、「手伝ってぇ」と頼まれ、声掛けてもらったことを嬉しく思いながらも断る。
そうして、「けち!」などと罵倒されたり叩かれたりを受け流す。そんな日々。

まだピンと来ていないけど、冒険遊び場は「遊んであげ場」ではないということと、「遊んでやらなくてもいい」んだと最近ようやく思えてきた。

それはまぁ、頼まれごとに応じた方が楽に決まってる。私を好きになってもらえるし、笑顔にしてやれるし、罵倒されずにすむ。
頼まれごとを断るのは、応じることの何万倍もの勇気がいる。
応じる方が楽。
でもその先にあるのは、こちらへの責任転嫁だ。

柄にもなく熱心に頑張っていたとき、
「そうじゃないよっ!」
「はやく来てよっ!」
優しい人を目指したら、怒鳴られっぱなしの人になってしまったのには驚いた。
本当にちょっとした事で、たびたび子どもに憎まれた。
大人ながらに大きく傷ついたし、なりたい大人像もあったし、どこから考え直せばいいのかも分からずぐるぐるしていた。

そんな時、代表に
「居場所にドラえもんはいらない」
そう言われ、心がボキッと折れて、引きこもってしまった時期がある。
毎日泣いていた。

今思えば、
「そこに骨なんてあった?」だ。

ひきこもったとき、体は健康で、私がいなくても子どもたちは居場所に通い続けていて、なんなら私がいたときより平和で、喪失感だけが強くあった。
あれは何が折れた音だったんだろう。

子どもは単純なんかではない。笑いも万能じゃない。その場を大人が収めても、なんとか全員を笑わせて終了にしても、子どもたちの人生は続いていく。

喧嘩は対等を教え、痛みを教え、立ち上がることを教え、仲直りを教える。
喧嘩に発展する前に阻止せねば!などと大人がしゃしゃり出れば、子どもは喧嘩を出来ない。
怒りを子どもの小さな胸にしまわせて「一件落着!」と得意満面で言っていたなら、彼らの心を折っていたのは私だ。

結局私にできるのは、断ることと見つめること、そこに居続けること、あと消毒と掃除と、駄菓子のお会計だった。
雑事は結構ある。それをやる人でいることだった。

涙の殴り合いが水掛け対決になり、そこになんとなく他の子も増えちゃって、お互い全身泥水びっしゃびしゃで笑ってる子どもたちがいて、
すべてお金で解決する保護者さんがいて、
「あんたが悪い」と自分の子を責める保護者さんがいて、
加害側なのに「子どものことだしね」と笑う保護者さんがいて、

大人は、私は、ドラえもんは、子どもの役に立ってるだろうか。

いまとりあえずの笑顔を守るための必死な行動をとり、子どもから経験値を奪う代わりに、子どもから「優しい人」と評価してもらうことができて、頼られて、ついでに保護者さんからは感謝されて…
なりたかった理想の大人はそれだったけれど、そうなったときの私は、子どもたちにとって何だろうと考える。

誰のための何になりたいかを忘れたくない。
子どもたちはドラえもんを欲しがっているけど、私はドラえもんになりたいんじゃない。

エンターテイナーを目指してた頃の自分は、今こんなふうに、子どもたちにとって「一緒に遊んでもつまんない大人になる」を目指して奮闘している自分を見て、ひたすら首を傾げてるはずだ。


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