親と仲裁と私

近しい他人をやってると、親御さんから
「あの子がウチの子の導火線に火をつけないように見守っててもらえないかな?」とか、
「ウチの子泣いてる!どうにかして!」って相談される事がちまちまある。

相談してきた親御さんの子どもたちの加害行為に関しては、私は「子ども同士のこと」として見ながら、代表たちやスタッフさんに連携をして逐一話し合ってきた。話し合うためのパレットのような寛容がある。その場にいる時の私は「親」ではないからだ。

でもその寛容を、ほぼ現場にいない親御さんたちは見ていない。たまたま自分の子が被害を受けたような所にちょうど居合わせた時にだけ、目で見た事にだけ、「なんとかして」と連絡が入る。

代表や代表の奥さんには頼まないような事を、スタッフであり親である私が頼まれるのは、「親」としてしか見られていない事に加えて、「親は公園では仲裁せねばならない」と、その人たちが考えているからかもしれない。

公園を息苦しくつまらない場所にする暗黙ルールのひとつ、「親の仲裁」。
公園ならいくらでもあるのにここを選んで、それでも仲裁を求めている。
家の中でみるのと違う、知らない顔をしている子どもを見て、不安になるらしい。

子どもの涙に動揺しないかと言えば嘘になる。慰めて力になりたいとも思ってしまう。
けど、仲裁や慰めを安易に差し出せばどうなるか。
私の善悪に子どもが影響される。
子ども同士の仲直りが遅れる。正しさを着るような癖が着く。ブレーキや防衛を覚えられない。
子どもたちにとってまるでメリットがないことだし、私のような未熟者には務まらない。
ケンカが起きた時に私が出来るのは、せいぜい、誰かが振り回した工具なんかをこっそり取り上げるくらいだろう。

「親は、子どもの涙の原因を片っ端から解決するために存在してるんだ!」という価値観、個人で持つ分にはどうぞと思う。
それが、ご自身の両腕でも足りなくなったのか、そちらの腕も2本あるでしょう貸して!と頼んでくる。

お子さんの手は涙を拭えます、立ち上がれます、大丈夫ですよ。
こないだもその手で、他の子泣かしてましたし。お母さんいないときのお子さん、めっちゃ逞しいですよ……。

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