日々の蓄積がうっかりこぼれる(ばれる)行為



『君、ピアノの練習はたくさんしてきたかもしれないけど、ピアノで遊ぶってことをあんまりしてきてないだろう?』







学生時代、作曲の師匠に言われた一言。


“作曲を始めたい”という初期衝動が湧き上がる瞬間を経験するまでのプロセスの違いは、良くも悪くも作風や手癖【*1】のようなものに表れやすい。

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『君はほら、ピアノが弾けるからパッと手を鍵盤の上で広げて適当に音の塊を弾いてみたって、自然にオクターブや三和音みたいなルール内の音を掴むだろ?僕はそうじゃないから偶発的に新しい響きを見つけられるんだ』

自分に染みついたものの根深さゆえに、簡単に納得した気になるのは危険だと思ったけど、理解はできた。

簡単に飲み込んではいけないと危惧したのは、表面上の目新しさだけに飛びつくあまり、音楽的に豊かな表現をするために演奏家が積み上げてきた鍛錬の成果=演奏 という概念を軽んじ、その表現が報われないとなると、いよいよそれは筋の通った創作行為ではないという教えに対する忠誠心があったからだ。(既にみんなが使い古したパッセージというものが理にかなった共有財産であっていいとも思っていたし)

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けれども、“鍵盤で遊べ”という、師匠のいつかの一言を素通りさせることができなかったのは、きっとそんな表面的な逃げとして扱うかどうかという次元の話ではない、もっと深く根差した根本的な課題に対するアドバイスだと受け止めていたからなのだろう。

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ひとつひとつ、立ち止まって理屈を考える隙のない即興演奏が正直あまり得意ではない。(即興演奏、というほど大げさでなくても、オペラにおけるレチタティーヴォ・セッコ【*2】で音をうまい具合に入れるのも即興的な感覚が必要だと痛感している)

引き出しの中身が足りないのか、引き出しの取っ手が錆びているのか、混乱して取っ手の押すと引くを間違えているのか、、、たぶん全部。

演奏に限らず、咄嗟の返しというのもそこまでうまい方ではない。

多少拙くても、瞬間に飛び出た簡潔なものであることの方が重用される場面というのは世の中少なくないし、絶対今そっちだったよな、と思いながらもつい言葉を重ねてしまう。

深刻ではないことが深刻そうに聞こえてしまうのがネックである。

深刻な感じで冗談を言い、冗談のように深刻なことを言える人というのは本当に憧れる。

だからタモリさんが好きなんだろうな。

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_勧進帳なんて究極形だよな、と思ってリンク張るために検索かけたら、サンキュータツオさんの考察が出てきて、なるほどなるほど。。。うんうん。。。そうだよね。。。うん。。。



…とりあえず久しぶりに米粒写経さんのネタが観たくなりました。

はぁ、劇場が恋しい…


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『猫の手の形のミトンをはめて試しに鍵盤の上で遊んでみたら偶然いい音響だったんだよ~猫には何してるんだって顔で見られたけどさぁ』
















_文脈を知らない、次の枠の門下生の先輩もそんな顔してた。




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…猫の手も借りたい。




【*1】ここでいう『手癖』は、*凹にとって音楽教育を受ける初期段階にピアノというものが身近にあり、まるで母国語で物を考えるのと同じようにピアノ的な表現や発想が、自分にとってネイティブな感覚として染みついてしまっているがために出てしまうもののことを指していて、冒頭の師匠の言葉は無意識のうちに手癖に依存しがちで、“未聴感”(新しい音の響きとの未知との遭遇みたいなこと)を探求することを放棄してしまうことへの懸念や忠告の意味が込められたものである(という認識でいる)
【*2】『レチタティーヴォ・セッコ』…“装飾的要素のない叙唱”の意。オペラの中で主に心情の吐露などに重きが置かれるアリアなどの楽曲とは別に、物語を進行するはたらきを持つのがレチタティーヴォと呼ばれる叙唱部分である。記譜された音符の上でparlare(語る)するような歌唱法が求められる。主にチェンバロが伴奏に用いられるが、これには①歌手への歌い出し音②演出上のきっかけ という2つの意味のキュー出しの役割があり、分散させた和音をどのタイミングで鳴らすのかは奏者のセンスと経験に掛かっている。なお『セッコ』を“乾いた”“無味乾燥な”と誤訳する例が目立つが、これは間違いで、装飾的でないとされているのは役(歌)ではなく伴奏である。チェンバロや通奏低音による分散和音中心のものではない、オーケストラによるより音楽的な伴奏つきのレチタティーヴォのことを『レチタティーヴォ・アッコンパニャート』という。

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