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戸川純さんについて、思うこと

instagramに載せた文章の転載です,

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戸川純さんの作詞した曲について、歌詞が記載され、戸川さんご本人による解説がされている本です。歌詞のみが記載されているシンプルなものではなくて楽曲リリース当時の裏話、そして彼女自身の葛藤なども書かれていてとても読み応えがあります。彼女自身による歌詞の解説としてだけではなくて、彼女の伝記として読むこともできて。

戸川純という人は、彼女自身が抱えたトラウマを芸術として昇華したアーティストだと思うのです。初期は彼女自身の過去の辛酸を語っていたけれど、歌うことと、演じることで、次第に一個人として成長されたのだな、と。そして若い時の私は今よりもずっと、自分自身のことは他人には理解されないと思っていたので、そんな私が彼女の作品に対してシンパシーを持ったのは当然だと思いますし、戸川純さん自身も他者に理解されることは所詮は幻想だという結論に現在は達されているようで、そこにもとてもシンパシーを覚えます。

戸川さんは「不思議ちゃん」として消費をされていたところがあったのだなと、さまざまな映像その他をみて思いますが、私は彼女はとても先進的なアバンギャルドな女性だという印象を持っています。そして彼女のソロ名義で発表された「玉姫様」は、ニナ・ハーゲン的なアバンギャルド性と、戸川純さんの生き物としての女性性が融合されて出来上がった作品だと思います。それらがとても生々しく感じられるので、目を背けたくなる人も多いと思いますが、恐怖を感じつつもどうしようもなく惹かれる、美しいと感じる受け手もいて。私は間違いなく後者です。

「玉姫様」を制作したときのことを戸川さんが何かのインタビューで話されているのを見たことがありますが、彼女は自分の言いたいことを主張するというよりは、伝えたいことを表現したいという思いを強く持たれていたんだなって。だけど当時は「主張したい」と受け取られたのだと。そして戸川さんの、表現したいと言うその思いの意図が伝わった人にとって、戸川さんおよび戸川さんの作品は、その人自身の感情、言語化したいけれどできなかった感情を、補完、補填したりする存在なのではないかとも私は思うのです。

「玉姫様」はカバー曲が多いので、パンクやニューウェイヴというカテゴリー内にとどまらないで、ポピュラリティも持ったと思えたりもします。そこに後年にリリースされるRCサクセションの「COVERS」との共通性を感じもします(作者の意図と異なる捉えかたをされただろう作品としても)。「玉姫様」で彼女を盛り立てる作家陣は、細野晴臣さん、サエキケンゾウさんを始めとする当時先端を行く人たちが揃っていて(少しだけ、内輪受け的に面白がっているところもある?と感じたりもしますが)戸川さんの決して作られていない「可愛らしさ」を素晴らしく引き出していると思うのです。

こののち平沢進さんが戸川さんのことを「彼女は天才」といって(今の今までそう思われているようです)、戸川さんの作品作りに関わられたり、平沢さんの作品に戸川さんが参加されたりもするのですが、それらも素晴らしいのです(そういえば戸川さんの「昭和享年」という、平沢さんがプロデュースの仕事をされたアルバムもカバー集で、とても好きなアルバムです)。

戸川さんが一貫して表現されてきたことは、冒頭にも書いたように、他者とどこまで話してもたぶん全ての思いが伝わることはない、平行線は免れないという「思いの伝わらなさ」なのかなと私は思うのです。戸川さんはその伝わらなさを伝え続け、結論として「他者に理解されることは幻想に過ぎない」ということに達したと思うのですが、それは決して「敗北」ではないと思うのです。戸川さんが、表現することに対する狂おしい程の情熱をもちながら、時にそれが戸川さんの心身に負担となりながらも、生きるという事そのものを肯定しようともがいてきた中で到達された「他者に理解されることは幻想にすぎない」という結論だと私は思うからです。

#戸川純
#玉姫様

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