Losing Game 2

出張は気が詰まるような内容だったが取引先の明るい雰囲気が救いだった。伝染病は思ったよりも広まっていて処分しなくてはいけない乳牛が出たため乳製品の生産量がこれから先一年ほど影響を受けることは残念だ。
「仕方ないじゃない、病気だもの。私たちよりも手塩にかけた乳牛を処分している酪農家のほうがきっとつらいわ。野生動物が他の国にも運ぶからってその駆除も始まったみたいよ。それに比べたら私たちはオフィスで仕事して、定時で上がってこうやって飲んでいられる。」
職場に近いレストランで担当者のマリアンはあっさりという。彼女と知り合って一年ほどだがヨーロッパ人のややドライな感覚と人情味のバランスが良く、付き合いやすい人だ。日本にも半年ほど住んでいたという。
「フランス語の先生として入ったんだけど、日本語や言語学が専攻でもないし、最初から目的は仕事よりも観光することなんだもの。いろいろ遊びに行ったわね。なんだっけ、ほら、寅さんだわ!彼の映画があるじゃない?日本に行く前、暇つぶしに入った小さな映画館で偶然見たの。憧れたわ、今を生きてるっていう人生に。」
悩んでいても仕方がないと地方での視察を一日くり上げて早々にパリに戻ってきたことをどこかで気にしていた私だったがマリアンの言うとおりだ。帰りの飛行機は明後日だから、明日は朝軽いミーティングを二つだけ入れて午後はゆっくりしよう。


11月の街は木枯らしが吹き始めていて、歩くには少し寒かったがマイナス25度を下回る事が年に何回もあったミシガンに比べれば何のことはない。クリスマスの気配がちらほらと見え始めていて、美術館などに入らなくても歩いているだけで楽しかった。どの国に行っても地元のスーパーにのぞいてみるのを習慣としていて、今日はカルフールに入った。いかにも観光地という土産よりもこの国の人が使っているんだろうなと思えるものを安く買えるし仕事のアイディアをつかむのにもいい。

店内を歩いているだけでかごはどんどん埋まっていった。深い緑のレトロな包装のクラッカーが目に留まる。大学の時にやったきりの、かなり怪しい私のフランス語がこの名前を知っていると頭の中でおぼろげに言っていた。
彼の言っていたクラッカーだ! こういう綴りだったのか。 よく見ると100年近くも変わらない方法で作っているらしい。私はそれを二箱買った。


帰国してからは忙しく、いつの間にか師走を迎えていた。ふと思いついて買っただけなのだから何かのついでに渡すつもりだったがよく考えればついでに会うような相手ではない。
仕方ない、届けるか。昼休み、もらった番号にかけてみる。
「もしもし?」
彼の落ち着いた声が響く。自然と笑顔になった。
「お世話になっております。お忙しい時間にすいません。」
「いや、そんなことないけども。。。何かまたうちでミスありましたか?」
「いえ、そうではないんです。先日、部長がおっしゃっていたクラッカーを偶然見つけて。買ってきたのでご在室の時にオフィスにお届けしようかと思いまして。」
「本当!? うれしいなぁ! うーん、今日は夕方の6時までは会社にいると思う。受付で営業につないでもらって。誰か迎えに行くように言っておくから。」
4時に伺いますと伝えて電話を切った。こういう時、営業は便利だ。社外に出る理由はいくらでも見つけられる。
さすがは日本を代表する広告代理店の本社である。六本木に大きな自社ビルを持つ。約束の時間少し前に着いて言われたように受付に行くと営業部から迎えの人が来てくれた。高層階専用のエレベーターに乗り込む。
「営業部は四階ではありませんでしたか?」
「実はそうなんですが、部長は今日の午後は26階の会議室に居りますのでご案内させていただきます。」
「ありがとうございます。」
不思議に思いながら26階につくと中央のロビーに案内された。こちらでお待ちくださいと言うとその人は会議室に声をかけて去っていった。会議室というよりは大人数で集まれるイベントホールがあるような感じのフロアだ。五分ほどしてドアが開く。
「あ、ごめんね、こんなところまで。急に予定変わっちゃって。」
ジャケットを脱いで腕まくりをした部長が顔を出す。クラッカーを渡すと、その後ろから二人の男性が転校生を見る学生たちのように目を輝かせて顔を出した。
「出てくんなよ、子供じゃあるまいし。」
と部長は言いながらこの前話した二人だよと紹介してくれた。背が高く整った顔立ちの方は執行役員をしているそうだ。制作部から初めて役員になったそうで、赤みがかったさらさらの長髪、サラリーマンというよりアーティストがぴったりくる。もう一人はストライプのダークスーツにシルバーのピンを合わせて、柔らかな人懐こい表情で最初に挨拶をしてくれた。総務部長ということでさすがにソツがない。いろいろ聞かれそうになるところを部長は遮って二人を会議室に押し戻す。
「ごめんね、やじ馬で。今日夜時間ある?」
午後8時にこの前のバーで待ち合わせることを決めると彼は急いで会議室に戻っていった。エレベーターに向かう後ろからギターと歌声が聞こえてくる。気になって会議室のドア越しに聞いてみた。ギターが二台は入っていて、音に膨らみがある。声は二人の時と三人の時があるがきれいなハーモニーを奏でていて、まるで三人が一つの楽器のようだ。ドアを開けようと思わず手をかけたがそうすると彼らは歌うのをやめてしまうだろう。ドアの前に立ち尽くしたまま、結局二曲をフルコーラス聞いたところでエレベーターがこの階に止まる音がする。それに促されたように、乗ってきた人を吐き出したばかりのエレベーターに乗り込んだ。

私が店に着くともう彼はもうグラスを手にしていた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせていたが薄暗いバーカウンターでうつむき加減に飲んでいる彼は、先ほどとはまるで別人で私は思わず息を止めて彼を数秒見入る。
「お疲れ様です。遅れました、すいません。」
「いや、俺が早かったんだよ。さっきごめんね。」
この前と同じティーリングを注文すると、彼も二杯目に私と同じものを注文した。
「改めて、ありがとう。あれをよく食べてたんだ。 なんだか昔の懐かしいような味がしてね。俺、実家が田舎のよろず屋みたいな店やっててさ、あういうクラッカー売ってたんだよ。今は兄貴が継いでるから俺は東京で自由にしているけど。」
彼が話す子供のころの話は、遊びというより自然の中のサバイバルゲームのようで大企業の重役である今からは全く想像がつかなかった。高校は都内の大学付属に進学して、そこからずっと東京にいる。先ほどの二人は高校からの付き合いだそうだ。その二人と趣味の音楽を続けているらしい。


「今日もさ、4時から6時半まで忘年会の練習な!って3時半に電話かけてくるんだよ、社会人としてあり得ないだろ。仕事中だし予定あるって言ったんだけど総務は部長級以上のスケジュールみんな持ってるから、予定ないのもばれてんの。いくら25階から30階までは制作の持ち物だって言っても会社で練習したら大丈夫って話でもないよな。」
急に砕けた口調になったのは気心知れたお友達の話になったからだろう。
「仲良しなんですね。」
「仲良し、なんだろうなぁ。もう40年以上一緒だしね。二人ともそうは見えないかもしれないけど仕事には厳しいんだよ? でも一緒に仕事してるとさ、普通だったら遠慮とかあるけど俺たちは逆にないからすぐにケンカになるんだよな。最近は部下たちだけで仕事がどんどん進んでる。いいんだよ、俺の話は。で、どうだったの、出張は。楽しかった?」
「現状が現状ですから楽しいだけじゃなかったですけど、最終日の午後に少しだけ散策できました。スーパーが楽しかったです。現地の食材とか見られるし。」
「食材みるの? それどうするの?料理するの?」
「家ではしますけど出先では見るだけです。仕事の興味のほうが大きいですよ。」
「外国でスーパー行くような発想ないな、俺は。レストランには興味あるけど。」
「部長は料理なさらないんですか? 男性の料理教室も流行ってると聞きますけど。」
「うちはかみさんがいるからね、手伝うくらい。外食も多いし。」
結婚指輪はしていなかったけれどこの年代はしない人も多い。清潔感のある着こなしは奥様がいてこそだろう。なんだか、納得したようながっかりしたような気持になったのを覚えている。
「結婚はしていらっしゃるの?」
「していたことも、ありました。」
「そうなんだ。ま、仕方ないよね、最初からそんなつもりで結婚するんじゃないんだし。」
「結局、向いてなかったのかなって今は思っています。向こうの家族も本当によくしてくれていたのに2011年の震災があって、家族や友達が困っているのにアメリカからでは何もできなくて。これでいいのかなっていうのがどんどん大きくなっちゃっていた所に、知り合いに興味あるならって今の会社紹介されたんです。そこで初めて夫に話しました。その時点で夫婦としてはだめですよね。もう私の気持ちは固まっていたわけだし、相談じゃなくてほとんど報告でしたから。すいません、暗い話にしてしまいました」
そこまで話して私はグラスをあけた。
「いや、聞いたのは俺だから。同じものでいい?」
私はうなずく。普段ならこんな話はしないし、毎日あう同僚ですらここまでは知らないだろう。でも父親と10歳も離れていない部長には不思議と何でも話せる気がした。


お酒の味が好きじゃないだけで弱いわけではないが、さすがにウイスキーのロックも三杯目に入るとそろそろほろ酔いだ。ここの最寄りが麹町なら九段下まで歩けば乗り換えなく中野に帰れる。2キロくらいなら酔い覚ましにちょうどいい。
「そろそろ回ってきたので帰ります。」
「じゃ、タクシー呼ぼうか。」
店員に話しかけそうになる部長を止めた。
「酔い覚ましに九段下まで歩くので大丈夫です。そこから電車一本だし。」
「それはだめだよ、九段下っていえば武道館のあたりだろ。寒いし途中に神社もあるから夜は危ないよ。」
それでも歩くと言い張る私に彼はため息をつくと一緒に歩くと言い出した。

夜道は暗かったが忘年会シーズンの今は人通りがある。確か女子大が近くにあったはずだ。
「おお、寒い。部長のおうちはどこですか?」
「渋谷。 最近はあんまり車運転しないから便利なほうがいいんだ。」
「じゃあ、反対方向じゃないですか。あ、東京タワー。ふふ、やっぱりきれいだなぁ。」
思ったよりも酔っているのかちゃんと歩いてはいるが私の話には脈絡がない。やっぱりスカイツリーより東京タワーですよね、と振り返ると
「見に行こうか、東京タワー。」
と部長が聞く。さっきまでわがままな娘に手を焼く父親みたいな顔で立っていたのに、今は真剣な顔で私をまっすぐ見ていた。


かすかに頷いた私をタクシーに乗せると、彼は会社の名前を告げた。 建物に入ると社員の影はなかったが警備員が頭を下げる。夜11時過ぎに会社に営業部長が戻ってくるのはこの業界では普通の範疇に入るのだろうか、私は今どんな顔をしているのだろう。そんなことを考えているうちに彼は30-35階行きのエレベーターを呼んで34階に上がる。面積の広いオフィスが並んだいわゆる役員フロアだ。その中の一つにコードを打ち込んで彼はドアを開けた。
「どうぞ」
「失礼します。」
電気のついていない部屋に入ると目の前に東京タワーと夜景が広がっていた。思わず息をのむ。その間に彼は部屋の冷蔵庫から小さなペリエのビンを出してくれた。
「ありがとうございます。この部屋は?」
「ここは昼間あった赤毛がいたろう?あいつのオフィス。眺めがいいんだ。俺は高いところだめだからあんまり来ないけど。」
だからドアのコードまで知っているのか。見渡すと写真や賞状、トロフィー、ギター、なぜかゴジラまで並んでいる。見かけは派手だが本当に仕事はできるらしい。
私が視線を戻すと部長は窓の近くの机にもたれていた。また彼に見入ってしまう。心臓の音が聞こえてきそうなくらい静かな部屋で、気が付くと私は彼の頬に手を伸ばしていた。窓の外を見ていた彼が振り返って目が合う。
「ごめんなさい。」
ハッとして手を引っ込める。目はあったままだ。
「大人をからかってはだめだよ」
と目をそらしながらかすれるような声で彼が言う。
「からかってはいないです。」
「僕は君よりだいぶ年上だ。」
「知ってます」
「結婚もしてる。」
「知ってます。」
「君の答えは禅問答みたいだな」
と彼が低く笑った。その瞬間、私から唇を合わせる。
「これは謝りません。」
驚いたような、照れたような顔で彼が私を見つめている。
「酔ってるの?」
「酔ってなかったらこんなこと出来ませんけど、明日になっても全部覚えてるくらいには覚めてます。誰にでもするわけじゃないし、嫌だったら止めてください。」
彼を抱きしめる。その瞬間、彼の上着ポケットで携帯が鳴った。取り出すとガラケーのスクリーンからこの部屋の持ち主の名前が見えた。
「どうぞ」
彼に差し出すとそのまま電話に出る。
「お前、俺の部屋で何してる?警備からコード使用の電話あったぞ。」
「夜景を見てる。」
「そんなの一人じゃないよな。誰といる?」
返答に困る彼が口を開く前に私は急いで部屋を出た。 エレベーターホールまで来ると急に我に返って振りむいたがきっと彼はまだ電話中だろう。


その後はどうやって帰ったかも覚えていない。

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