Losing Game 3

「四月からマネージャーに上げるからな、覚悟しとけよ」


年末の忘年会で突然上司に言われた昇進の話を正月に帰省した地元の雪深い道を歩きながらぼんやり思い出していた。 例のソースはコマーシャルの放映も決まり、年明けからはますます頑張ろうと社長が挨拶した直後だった。上司は部下には愛想のかけらもない男だが、仕事はできるし何より感情的にならないのが良い。それに普段はケチで鳴るくせに、時折思いついたようにコーヒーをおごってくれたりする。
12月はいろんなことがあって、正直気持ちがついて行っていない。あの夜の出来事も考えれば細かいところまで全部思い出せるのに、全体像となると霧がかかったようだ。 帰省といっても両親は妹の子供たちに夢中だから私にはあまりかまわない。それに甘えて本を読んだり、散歩に出たりゆっくりしていた。

昔から雪の中を歩くのが好きだった。音の消えた夜に雪をサクサクと踏んで歩くと湿気を含んで骨身にしみるような寒さが頭をはっきりさせてくれる気がする。
「お姉ちゃん、何かあったでしょう?」
ついていくと言い張った妹が正面切って打ち込んできた。
「四月から昇進するんだって、ちょっとだけ。 なんか荷が重いっていうか。」
「本当にそれだけ?」
私とは全く正反対の人生を歩む二つ下の妹だが、双子と呼ばれるほどに見た目も性格も近い。お互いに何かあればすぐに気が付くから、彼女は私の秘密をたくさん知っている。
「隠しても無駄だけど、今はまだ自分の中で理解しきれてないから準備ができたら話す。」
とだけ告げて私たちはうちに帰った。

東京に戻ると、文字通り目の回るような忙しさだった。新年の挨拶まわりに、ソース関連だけでもイベントや促販グッズの手配、新規開拓も怠けてはいられない。一か月のうち、半分は出張に出て残り半分は書類仕事、次の出張の手配などやることが山のようにあったのだ。年度が改まっても忙しさは減るどころか増すばかりで、気づくと桜はいつの間にか散ってしまい、あっという間に来週はゴールデンウイーク。今年は花見に繰り出す余裕すらなかったが、営業部がそれほど忙しいのは商品が売れているせいだから文句をいっては罰が当たるだろう。


5月3日、4日、6日に仕事のイベントを入れたから帰省の予定はなかったけれど、それでも正月からの忙しさに一息入れられることは確かだ。本当のところは、忙しくしていれば彼のことを考えなくて済む。自分の気持ちのことも。休むことを怖がるように空いている日に予定を入れた。ちょうど週末と重なって私は4月28日の日曜から5月1日の水曜まで一人で九州に出かけた。長崎空港で車を借りてその後は柳川、阿蘇山、黒川温泉、大宰府と回って福岡空港から東京に戻る予定だ。さすがに2日と5日は休んで荷ほどきや洗濯掃除などの家事をしなくてはならない。
長崎のグラバー邸、オランダ坂、中華街とガイドブックを見ながら回り、二十六聖人像についたときは夕暮れのオレンジが差し始めていた。左から見ていくとどの像も目を伏せているのに真ん中に近い像がまっすぐ私を見つめていた。自分の信じたものに命をささげた彼らの悲しそうにも穏やかにも見えるその目は私の中にある塊のような気持ちを見透かして咎めているようで、私は思わず目をそらす。


「ただのキスじゃないか、中学生でもあるまいし。」 あれは聖人へのいいわけだったか、自分への説得だったかはわからない。


この日は長崎泊まりで、稲佐山の中腹にあるホテルの部屋からは夜景がよく見える。夜の九時過ぎに知らない番号から電話が鳴った。出ないでいるとメッセージを残っている。
「もしもし。ご無沙汰しております。お時間のある時に折り返しお電話いただけたらと思います。」
約五か月ぶりに聞くその声はそれだけ告げて切れていた。
気が付くと携帯を握りしめて私は部屋の片隅にうずくまっていた。とりあえず昼間、理性の働くときに折返そう。ただでさえこんな気持ちにはブランクがあるのに夜景の見えるこの部屋では落ち着いて話すのは難しい。
翌日は有田、伊万里と回って柳川まで行く予定だ。車に乗って出発する前に電話しようと決めていた。何秒か迷って発信ボタンを押すと呼び出し音が鳴る。


「もしもし」
「おはようございます。昨日すいませんでした、電話出られなくて」
「いや、実家に戻ってらっしゃるかと思ったんだけど。東京にいるの?」
「九州にいますけど、仕事ある日もあるのでその前には戻ります。」
「九州? そっか。 4日は東京にいる? この前と同じホールでお友達だって言ってたバイオリンとピアノのコンサートあるんだけど興味ないかなって思って。」
そういえば3月ごろ友人からその案内状が来ていたかもしれない。そんなことを考えているうち彼のまるで先週会った友達を誘うような淡々とした口調に、行きますと答えてしまった。4日の仕事はお昼時のイベントだが夜開演のコンサートなら問題はないはずだ。待ち合わせを決めて電話を切る。

コンサート当日は私が少し待ち合わせに遅れたせいで、私たちは会場が暗くなり始めてから滑り込んだ。音が偏らずまっすぐに聞こえるいい席だ。
彼が隣にいる。
それだけでもう演奏は頭に入らなかった。一応名のあるオーケストラでコンサートマスターを務めるほどの腕だから今夜も難易度の高い楽曲を演奏している友人には申し訳ない。共演のピアニストは音大の同期だと聞く。
コンサートが終わると、どちらからともなくあの麹町のバーに向かって歩き出す。


「冬からこっち、何してた?」
「仕事です。笑っちゃうくらい本当に仕事ばっかり。桜を見た記憶もありません。」
「調子いいんだとは聞いてたよ、コマーシャルも第二弾作ってるらしいからね。できればこのままシリーズ化をうちでお願いしたいくらいだ。」
ふざけた口調が突然止まって、彼は歩きながら私の手を取った。
「会いたかった。」
「うそ。だったら電話くらい。私の電話番号も勤め先も知ってるじゃないですか。」
試すように言った私に、すねた口調の彼が返す。
「最初に会った日から惹かれていたと思う。でも君がクライアントの関係者であることに変わりはないんだよ。家庭のことだってあるし、何よりも自分の気持ちが何なのかわからなかった。この年でドキドキしたら普通は動悸で病院に行くところなんだぞ。」
「それで、わかったんですか、自分の気持ち。」
「少なくとも動悸じゃない。」
冗談めかしながらも私を見る目が緊張している。その緊張が私にもうつったようで私はそこから先を聞かなかった。私は雰囲気を変えたくて質問をする。
「あの、そういえばこの前かけてきた番号は?最初くれたものは携帯の番号じゃないんですか?」
「最初にあげたのは職場の携帯。電源は入ってるが大概は会社においてある。この前のは個人の携帯。こっちは持ち歩くけど電源があまり入っていない。」
それではどちらも携帯電話の意味はあるのかと思ったが、とりあえず次回は彼のほうから電話して私の都合を聞くということに落ち着いた。

電話がかかってきたのは間もなく6月という蒸し暑い夜だった。
「ドライブに行こう。」
「どこまで?」
「軽井沢」
6月中旬の土曜日、新宿駅で私を拾うといったん西に向かって練馬から高速に乗った。軽井沢は長野県と群馬県の県境にあって東京から三時間弱で着く。シャツに薄いカーディガンを合わせ、サングラスをして運転している彼は普段はスーツで会うからわかりにくいが、きちんとトレーニングをして保っている整った体形だ。
「休日に出てきて大丈夫なんですか?」
「広告代理店の営業に週末なんてあってないようなものだからね。営業というなら君だって同じじゃないのか?」
「うちは当番はいますけど基本的に週末くらいは休ませてくれますよ。ゴールデンウイークも働いたし。」
軽井沢につくと車はまっすぐジョン・レノンが愛したというホテルのレストランに向かう。メインのダイニングルームに予約がしてあった。フレンチか、ちょっと苦手かもしれないと思いつつ席に着くと見透かしたように、
「ここはお昼だったら日本の洋食の要素が強いと思うよ。」
と彼が続ける。 確かにメニューを見るとビーフシチューやエビフライなどが並ぶ。考えてみれば向かい合って食事をするのはこれが初めてだ。量を考えて二人ともアラカルトから頼む。彼はエビフライを頼んでいてそれは楽しそうに食べていたから思わず笑ってしまう。
「エビフライ、お好きなんですね。」
「嫌いな奴なんかいるの? 揚げ物は基本的に好きだよ、昔ほど食べないけども。」
そのまま食事中は好きな食べ物と嫌いな食べ物の話をしていた。私は特に嫌いな食べ物やアレルギーはないが好んで食べないものはいくつかある。実はフレンチはわりと苦手なほうだが、メニューにもよるから一緒に食事に行く相手としてはめんどくさい。対して彼は好きなものとそうでないものの差がはっきりしていた。
「よくスイーツをお中元とか差し入れでもらうんだけど、ほぼ全部総務か制作にあげちゃう。あいつら甘いものをよく食ってるからな。ポケットからアメだのパンだのが出てくるんだぜ。ドラえもんじゃあるまいし。俺はもらうならしょっぱい味のほうがいいんだ。」
「あ、近くにハム屋さんもあるみたいですよ。行ってみましょうか?」


食事の後、旧軽井沢の街並みを並んで歩く。よく晴れていて洋風の街並みと初夏の緑がきれいな日だった。チーズやジャム、ハムなどいかにもリゾート地のお土産が並ぶ商店街は梅雨の真ん中だというのにすでに大勢の観光客でにぎわっていてよそ見をしていると離れてしまいそうだ。それに私はもうジャムを三瓶とチーズの詰め合わせを買っているから手はいっぱいの上に重い。彼はその袋を私からとると左手に持ち、空いている右手を私に差し出す。少しでも気を抜くと誰かにぶつかりそうな人ごみの中で、私たちは東京という日常から離れて手をつないで歩いていた。まるでこんな日が明日も続くかのように、何気ないことを話しながら。
途中でソフトクリームを買った。一個は多いという彼に半分ずつの提案をしてスプーンを二つもらう。二人とも片手に荷物をもっているというのに、私が持っているソフトクリームを彼がすくおうとするから勢い余ってアイスの部分が落ちる。
「あああああぁ、 ソフトクリームが!どうしよう?ごめんね?」
必死で謝るのがおかしくて道の真ん中だというのにいい大人が大笑いしてしまった。久しぶりに体に空気を入れて笑っていた。
「今日来てよかったです。」
と唐突に言った私のほうを、まだ恨めしそうにアイスを見ていた彼が振り向く。笑顔の私を見てようやく彼も笑顔になった。

外はまだ夕暮れではなかったけれど、4時には車に乗っていた。7時過ぎには東京に着く。何といって出てきたのかは知らないが、あまり遅くは帰れないだろう。ふと思いついて車の中で気になっていた質問をした。
「あの、突然なんですが役員室で夜景を見た日、電話かかってきましたよね? 怒られたんですか?」
「あぁ、ずいぶんの前のこと覚えているんだな。怒られはしないよ。大丈夫。予定になかったから警備が気になって連絡を入れたんだろう。あいつは部屋に俺が入っても気にしないよ。」
「夜景なんか一人で見ないだろって聞こえたから。」
「そうだね。それは言われた。でも君が心配することじゃない。」
防犯カメラを確認すれば彼と一緒だったのはあの日の昼間クラッカーを届けに来た私だと気づくだろう。私の会社のことやそれ以外もあの二人に話したかもしれない。でも私の問題ではないと言われてしまうと質問を先に続けることはできなかった。軽井沢の楽しい気分に、一つ小さい石が沈んでいくようで私は話題を九州に変えた。

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