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リキシャのおじさん

今日の東京は雨。雨の日になるとぼくはバングラデシュでのある出来事を思い出す。

バングラデシュに滞在していた時のある夜、ホテルの近くにあるバーに行くことにした。そのバーには歩いていける距離であったがあいにく一日中雨でとても億劫に感じた。そこでリキシャを使うことにした。リキシャとは一種の乗り物で、前に自転車が付いており後ろの台に客が座って目的地に運んでもらうものだ。値段は距離に応じた言い値で決定する。初めにリキシャのおじさんは100タカを要求した。(1タカ-1.3円)

とても払う気にはなれず、現地レートの30タカまで交渉することにした。おじさんとの熾烈な交渉の結果、言い値で乗せてくれることになった。
おじさんが全体重を片方のペダルに
かけると車輪はジリジリと音を立てながら前へ進む。スピードが上がり、一段落つくと彼は首にかけた雨水がたっぷり染み込んだマフラーを後ろに払った。マフラーが僕の膝に当たる、その感触から彼が一日中リキシャを漕ぎ続けているのを悟ると同時に「一日どれだけ稼げるのだろうか」、「家族は何人いるのか」、「彼は風邪を引いても漕ぎ続けるのか」といった同情とも思えるような素朴な疑問が浮かんだ。肩甲骨の浮き出た彼の背中はなんだか大きく、そして切なく見えた。

バーの前に到着して、支払いをする。その時ぼくは50タカ札しかなく、ちょうどの持ち合わせはなかった。そうすると彼は「お釣りはないよ」と言った。よくある手口だ。「じゃあその店でタバコを一本買って来るね」と言うとぼくが座っていた椅子をパカリと開け小銭袋を取り出した。小銭袋と言ってもお菓子の袋にそのままお金を入れたものだ。
そして50タカを渡すと、彼は奇妙なジェスチャーをした。お腹をさすり、何か物を食べる仕草だ。貧しく食べるものがないという意味だろう、道端の物乞いもよく外国人のぼくに向けてしていたのですぐに理解した。
だが雨に打たれるのが嫌で、はやく中に入りたかった僕は20タカを催促した。いま思えばここで「お釣りはあげるよ」と言っていれば良かったのかもしれない。だがそうはしなかった。なぜならバングラデシュで何度も現地レートの何倍もの値段で払わされた経験があったからだ。

数分にわたるやり取りの末、おじさんは折れた。
彼がお釣りを渡そうとした時、彼の手からお金が落ちてしまった、ひらひらと舞いながら落ちる20タカ札。おじさんは腰を曲げ、拾おうとする、だが彼が拾う前に僕はサッと取ってしまった。無意識だった。急いでいたからだろうか?おじさんがお札を持っていくと思ったからだろうか?

おそらく後者だろう。お札を掴んだ瞬間、心を針で突かれたような感触がした、僕はおじさんの拾おうとする親切心を踏みにじった。自分にとってはたったの約30円、しかし彼が手にして喜ぶのなら渡せば良かった、と後悔の念が押し寄せる。彼のリキシャを漕ぐ姿を見て同情さえもしたのになぜ少しの気持ちも乗せてやれなかったのか。彼の次の客を探そうと去って行くのを見て、追って渡すことも考えたが「ここで渡したとして彼と僕の心は救われるのだろうか」と虚無感を感じ、ただあの背中を見送ることしかできなかった

「僕は傲慢で、卑怯な人間」彼の仕草が頭から離れない。

この文章、特に救って欲しいという目的でもなく夜に寝付けなかったので書いてみたものだ。
感想や「文章が下手」などの批判などなんでもコメントに書いてもらえるとありがたい。

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