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2023年末の量子コンピュータの状況

量子コンピュータ業界は変化が大きいので、毎年ある程度、状況を整理して棚卸しをしないと、追いかけられなくなってきます。
ですので、2023年12月24日時点での、私の把握している近年のアップデートをまとめておきます。
この記事では網羅的であることは目的としておらず、やや個人の感想寄りの記述も含まれる点はご了承ください。
著者は民間企業で量子コンピューティングのR&Dを行っておりますが、この記事は業務とは無関係に、個人の活動として執筆したものです。

アニーリングは状況に大きな変化なし

量子コンピュータは、量子アニーリング方式と量子ゲート方式に大きく分けられます。
量子アニーリング方式のハードウェアは、商業化されているものでは(私の知る限り)D-Wave社のハードウェアのみです。一方で、量子アニーリング方式で解くことができる問題形式(イジングモデル、QUBO)を解くためのソルバーの開発を行っている企業は数社あります。イジングモデルやQUBOは量子ゲート方式と比べ、ビジネス応用が考えやすいことから、関心を持っている企業も比較的多くあります。

この状況は以前から大きく変わっておらず、ハードウェア面やユースケース面で大きなブレイクスルーがない限りは、しばらくは似た状況が続くように思います。

これ以後では、量子アニーリング方式には触れず、量子コンピュータといえば量子ゲート方式を指すこととします。

最近のハードウェア動向

量子コンピュータ業界で最も動きが激しいのは、ハードウェアかと思っています。長らく、超伝導方式がトップを走っており、超伝導方式への挑戦者として他の方式がある、と考えると見通しがいいように感じます。

超伝導方式

IBMは今月(2023年12月)、1,121量子ビットを持つ Condor プロセッサを発表しました。前回の433量子ビットの Osprey プロセッサ(2022年11月)から順調に量子ビット数を増やしており、超伝導量子ゲート方式で初の1000量子ビット超えを果たしました。また、2量子ビットゲートの実装方法を変えてエラー率を改善したHeron プロセッサも発表されています。
これまで、量子ビット数以外の量子コンピュータの性能指標として、IBMが2018年に提唱したQuantum Volume (QV)が用いられてきましたが、新たにEPLGという指標が提唱され、示されています。少し穿った見方をすると、QVは超伝導方式にとっては厳しい指標で、イオントラップ方式に大差を付けられてしまったことが、性能指標刷新の背景にあるのかもしれません。一方で、QVではプロセッサ中の量子ビットのうちの少数を用いた性能しか測ることが出来ておらず、多数の量子ビットを活かした計算の指標としては、EPLGの方が優れています。

また、今年は、理研らによる国産の量子コンピュータも稼働し始めました。量子ビット数は64のようです。
2023年3月に理研で初号機「叡(えい)」が、2023年10月に理研と富士通で2号機が開発され、2023年12月に3号機が大阪大学に設置されました。

イオントラップ方式

近年はイオントラップ方式が超伝導方式よりも精度がよく、また、量子ビット間の結合が密であり、注目を浴びていました。小規模の量子回路で十分な精度を出すには、超伝導方式よりもイオントラップ方式の方が優れている時代が続いていました。一方、イオントラップ方式がスケールしづらい問題は以前から指摘されており、今年はあまり大きなニュースがなかったように感じます。IonQの2023年11月の投資家向け資料では、2023年に29量子ビットが実現できたことを報告しています。残念ながら、29量子ビットは少しいい市販パソコンで状態ベクトルのシミュレーションが出来てしまう規模です。2024年は35量子ビットを目指すことを発表しており、それでようやく、状態ベクトルすべてを愚直に持つ形式でのシミュレーションが市販パソコンでは難しくなります。

中性原子方式

ハードウェアで今年最も衝撃的だったのは中性原子方式です。中性原子方式は、以前は量子アニーリングのような用途特化型のものが多かったのですが、最近は量子ゲートの計算が出来る中性原子方式が出てきました。
ハードウェア構成はイオントラップ方式と似ています。高エネルギー状態であるRydberg状態に複数原子が励起できない現象(Rydbergブロッケード)を用いて計算を行っており、用途特化型のものは基底状態とRydberg状態、量子ゲート型のものは基底状態、中間状態とRydberg状態が用いられているようです。ハードウェアについては分子科学研究所 富田さんのスライドが、中性原子方式に取り組む企業についてはblueqat 湊さんの記事が分かりやすいように思います。

2023年1月にQuEra社が256量子ビットのハードウェアを発表しました。
2023年10月にAtom Computing社が1000量子ビット超のハードウェアを発表しました。
中性原子方式はスケールしやすいがエラー率が高いことも指摘されていますが、ハーバード大学とQuEra社は、2023年4月に量子誤り訂正に必要なしきい値の99.5%を上回ったことを発表し、2023年12月に小規模な誤り訂正符号や、48論理量子ビットの誤り検出符号が実現したことを発表しています。この規模の量子誤り訂正や誤り検出は、超伝導方式では未だに成し遂げられておらず、驚くべきものです。このように非常に進展が早く、2024年は中性原子方式の動向に注視が必要でしょう。

NISQの時代からUtility Scaleの時代に

これまでのFTQCとNISQの区分をおさらいし、それから、今年進展した分野について見ていきましょう。

おさらい: FTQCとNISQ

量子アルゴリズムには、量子ビットが理想的な形で存在し、その操作が理想的に動作することを仮定したものも多数あります。量子コンピュータが物理的な系である以上、完全に理想的なハードウェアは存在しえませんが、量子コンピュータの上に誤り訂正符号を構築することで、十分に理想的な量子ビットや操作が実現できると考えられています。このような方法をFTQC (Fault-Tolerant Quantum Computation, 誤り耐性量子計算)と呼びます。
用途やアルゴリズム、必要な精度にも依るため、一概には言えないのですが、実用的なFTQCを行うためには100万量子ビットなどのオーダーの量子ビットが必要となることも多く、現状のハードウェアでは実現出来ていません。FTQCはハードウェア開発ロードマップの一番先にある目標であり、現在や数年後に使える技術ではありません。最近は、小規模な量子誤り訂正を実現した事例が出てきていますが、FTQCが行える規模の量子誤り訂正は未だ実現されていません。

一方で、FTQCは出来ないにせよ、量子コンピュータのハードウェアが実現してきたため、今あるハードウェアを使った量子アルゴリズムがあってもいいはずです。2018年に、Preskillらが、NISQ (Noisy Intermediate-Scale Quantum)を提唱し、誤りのある50〜100量子ビット程度のハードウェアが実現している現在に即した量子アルゴリズムを探す動きが活発になりました。

その頃は、たとえスパコンを使っても、従来のコンピュータでは50〜100量子ビットの量子コンピュータはシミュレーションできないと考えられていました。しかし、最近では、テンソルネットワークなどのアルゴリズムを用いると、比較的多数の量子ビットであっても従来のコンピュータで近似的に計算が行えることが明らかになってきました。

さらに、ハードウェアのエラー率が高く複雑な量子アルゴリズムを作れないこともあり、従来のコンピュータと比べた量子コンピュータの優位性は、作為的なベンチマークテストでしか発揮されず、NISQアルゴリズムであっても量子コンピュータを用いるよりも従来のコンピュータでシミュレーションを行った方がよほど高速で精度が高い状況にありました。

近年のアプリケーション事情

ここ最近は、量子誤り緩和の研究が進展し、量子コンピュータを用いる場面に取り入れられました。はじめに、量子誤り訂正と量子誤り緩和の違いを明確にしましょう。

量子誤り訂正は、多数の量子ビットを束ねて誤り訂正符号を作る方法です。これにより、量子ビットのいくつかでエラーが生じても、他の量子ビットと合わせて測定することで、正しい状態に訂正することができます。量子誤り訂正には膨大な量子ビットが必要となりますが、エラーを訂正し、無かったことに出来るため、エラーに対する根本的な解決方法ということが出来るでしょう。

量子誤り緩和は、統計的な手法やハードウェアの特性を利用して、エラーの影響を軽減した結果を求める方法です(具体的な手法についてはこちらの記事をご参照ください)。エラーを根本的に無かったことには出来ないのですが、現在のハードウェアでも量子誤り緩和は利用でき、また、行わない場合と比べて計算精度が大幅に良くなることから、最近では量子誤り緩和は広く使われるようになりました。

2023年6月に、IBMが100量子ビットを超える系のイジングモデルシミュレーションを、127量子ビットの量子コンピュータを用いて行いました。従来は、そのような規模の問題は、量子ビット数としては足りていてもエラーの影響で有用な結果は得られていませんでしたが、同論文では量子誤り緩和を駆使して、精度の高い結果を得ることができました。
この問題は、従来のコンピュータにおいても、テンソルネットワーク手法を用いると近似的には求めることが可能ですが、実行時間や精度において量子コンピュータでの計算結果が従来のコンピュータを上回りました。

IBMはこの成果を「new era of quantum utility」と位置づけ、量子コンピュータが量子コンピューティングについて学ぶためだけに役立つ時代が終わりつつあり、量子コンピュータが有用なツールとなる時代がやってきた、としています。
そのように捉えるかどうかは意見が分かれるところです。これまでにも、量子コンピュータが従来のコンピュータを超越したことを主張する論文があり、今回もその新たなバリエーションが加わっただけ、と見ることもできます。
しかし、これまでは量子コンピュータでは有用な結果が得られていなかった規模の問題で、量子コンピュータが実行時間、精度の両方で従来のコンピュータを上回ったことは衝撃的であり、量子コンピュータが有用なツールとなりうることを示しているとも言えます。

まとめ

  • ハードウェアは引き続き超伝導方式が先行している。また、急速に進展しているのは中性原子方式

  • 量子誤り緩和の発展で、100量子ビット超の量子回路で有用な結果が得られる時代が始まった

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