社会システム論に於ける家族機能の分配
コミュタリアン VS リベラリズム 論争でも久しいといってもそんなによくは知らない(サンデル読んでいない(知っているのはトロッコ問題くらい)ではあるが、この目に見えない社会をシステム系としてロジックにした学が社会システム論であり、古くはカール・マルクスから始まったような、近代から始まった自然科学の一端であもある。
その社会システム論では、子供から大人へ成長し労働力として十分な機能をもつまで2つの条件が必要という。「安定したパーソナリティーの成熟」と「もういっこは忘れた」忘れちゃった(^^)(参考文献、ほとんど宮台真司BLOG)
ということで、この感情面で成熟するということは近代社会において、嘘なのであるが、これを社会化と呼ぼう。社会化することで社会契約だ。しかしながらこの安定したパーソナリティーの成熟には、安堵できる家族機能というものが必須となってくる。著書「最貧困女子」などでも話題になっているような
と話はぶっ飛ぶのであるが・・・・申し訳ないが
この家族機能は果たして血縁のファミリーだけしか保持できないのだろうか?
答えはワタシは違うと思うのである。何故なら、コミュタリアン的な感情は、その地域共同体によるものだとされる(参考文献なし)地域共同体の空洞化は文明の衝突によって引き起こされたことは久しい。米ロックスター、マリリン・マンソンには母親からハエ男のように、TVによって会話できなくなる親子関係を歌う歌がある。
しかしながら所有とはどういうことであろうか?個人とはなんであろうか。
個人が完全にこの地球上で独立した生態系を持つようなものであれば別であるが、個人もまた哺乳類という生態系の中の人間であり、生まれ育った地域共同体がなければ個人も個人のパーソナリティーも成り立たない。地域共同体をひとつの「意識」とすれば、フランス革命で確立したような「自由と個人」のような幻想は焚書してしまい、家族機能そのものを社会的分業できるものが望ましいのではないか。というても、保育所なり、学校なり、チャイムが鳴り、みたいな機能は、労働力の再生産の訓練でしかなく、感情の成熟につながるとは言い難い。近代以降、家族機能には不可侵性が存在し、法律により暗黙の内同意されている。
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