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法と権利と公共圏

わたしたちは、何故か意識を持っている。この意識の範囲は自由だとあれだ。この自由があまりにもやりたいほうだいだと、人類が全員死んでしまう。だから自由の範囲を決めた。それが法律なのだ。その前に、自由が他人とぶつかっちゃうところが、道徳として形になったり、倫理として、理念(概念(イデアになったりすると、ヘーゲルが言ってました。抜粋だけど。

ここで、アダム・スミスは、意識を持った同士が、共感したりできると言っていることも思い出そう。

だから、夏は暑いのだ。

それと、これとは、別の話だ。

とりあえず、意識は自由な意思、自由意志を持っている。その自由意志を持ってして、ダンスフロアでみなが集う。しかしこれが自由すぎた場合、自由の範囲が広がってしまって、道徳や倫理、そしてその先にある法、そして市民社会、最後に国家とぶつかりあってしまう、らしいのだ。しらんけど。

とりあえず、今ぶつかっているのは、国際金融銀行とぶつかっている。サブプライムローンは終わっていない。とりわけリーマン・ショック(日本語)の後の地球は、デリバティブの世界だ。しかし日本はまだデリバティブは米国の数%くらいしか割合はない。まだjリートくらいで収まっている。

戦後GHPの民政局GSは、日本に対して結構な公共圏をキメている。それは、敗戦国だからしょうがない。電通にいけばビフテキが食える。そうなのだ、電通くらいしかないのだ日本で踊ってもいい場所は。これは暗喩、メタファーであるが。(ちなみに日本は交戦権もない)(あとけっこう権利がない

まあ、そもそも、だ、国際金融資本からすれば、日本の地域にあるシャッター商店街なんか、自由の範囲がぶつかっているので、自由と某ジャスコ的がぶつかりあった結果、某ジャスコ的な自由の萌芽が始まった。

某ジャスコ的な大型店法が改正されてから、田舎の人々は、服を買うのに某ジャスコ的なところへ集うしか、術はなくなった。自由な意志を持つ人々は自由でもなくなってしまった。

それに加え、テレビジョンでは、アメリカンドラマのようなスタイルが放映され続けている。「家に帰るとママが、アメリカンパイを焼いてくれている」といったものだ「休日は湖でBBQ」など、専業主婦というのは実は作られたアメリカのなんかだ。専業主婦は貴族階級しかなかった。これが我々の自由の範囲だ。

おまけにいまはEDMだ。イギリスとかだとエレクトリック、エレクトロニカっていいうんだけどな!。

そして自由な意思をもつ自由な意識は、ダンスフロアに集まったのだ。

それがこのTシャツだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

こんな自由なことをされては某ジャスコ的なところに人々が集まらない。自由なジャスコ的な生活と、自由な意識の戦いだ。

そして鳥取から、大阪へでてきたのだ。

そこで出会ったのが、ダンスフロアだ。

なんだこの空間は?これが第四空間なのか?

某ジャスコ的なところとは、ちなみに、ユニクロではない。

その空間それは、肉体と離れてしまった魂の墓場だ。

I'm Confusion



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