デカルトのコギト・・・・だれ?
ある程度、カントの純粋理性批判ではデカルトについて言及があります。それも結構いたるところに。ある面ではデカルトのコギトが分析する内容が経験であり、分析的なものであると言及しますが、したがって、その「わたし」とは一体何なのかについては、一回読んだ限りでは、正直謎のままでした。
カントに関してはまだほかに批判書が2冊あります。これ以上カントを読むのは、正直ごめんです。まじで勘弁してくれ。
で、まあそのカント的にいう世界認識の超越論は、まあいいのだけど、その超越論でもっても、わたし、という存在は、存在してんだから超越論的に、しょうがないじゃないか。じゃないか。みたいな!
ということで、まあ、デカルトのコギトについては、まだ現在も500年たっても、ポストモダンになっても、人工知能にとっても、越えられない壁なのです。
なので、そのわたしは、誰か、というのを、まあいままで通り、観測者ということにしましょう。
観測者は理性的な人格を持つもので、人工知能には理性的な判断は、今現在2016年は、無い。観測者として、成立するのか、どうかも、わかんない。うーん。うーーーーーーーーーーーーん。
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