存在と時間
私は今ドイツのウルムという村の暖炉で考えている。
時間とはなんだろう。
時間を感じるには、時計を見ればいい。時計の秒針が動くのを見てそれを経過したということを見れば、時間が過ぎたんだな、と思う。時計がない場合は太陽の向きや、月の位置などで時間の経過を判断できる。小川を眺めている時は、時間を正しく認識するのはなかなか難しい。時間とは何かが動いた経過でしかない。
もしこれが嘘だったら?
例えば、まったく時計が動かない、時計があったら、壊れているのかなと思うだろう。時間が止まったんだ!とはさすがに思えない。しかし太陽がずっと同じ位置にあった場合、時間が止まった!と思うだろうか。
ここで特殊相対性理論のカンタンな法則であるが、時間を見ている観測者は、どっちかっていうと、時間が動いているのではなくて、自分が動いているのだ。
沖に出たばっかりの船に乗っている。その時、どんどん港が遠くへ行っていいてどんどん離れているのだけど、これはどっちかっていうと、港のほうが離れていっている。相対性理論になると、そうなる。
この動きを、等速運動というのだけど。この等速運動が光の速さに近づくほど、急激に質量が重くなり、光の早に到達するには太陽まるまる一個分よりももっと重たくなる。
その話はいいとして
つまり、秒針が動く時計を見ているのではない。自分が秒針が動いた時計を連続して運動しながら見ているのだ。運動といっても、ヨガとか、鬼ごっこじゃないぞ。
なんだ、なんかこの2字方程式のグラフよりもっと複雑なやつで、zとかt2とかわけわかんないグラフでの時間なので、わかんにゃいと思うけど、
秒針が動いた時計の世界が、何個もあると思ってくれ。その世界をいったりきたりしてんだ。だから、秒針が動いた世界が、現実の世界に、何個も実はあると思ってくれ、意味わかんないと思うけど。あはは
つまり、自分が動いていて観測した分だけの情報量が、時間なのでは?と思って、暖炉を見ていたら、なんだか全部が嘘のように思えてくる。全部が幻なのではないか?しかし、こう思った瞬間、この私は本当だろうな。
この私を見ているのは、実は私の中の人である。
中の人が眠っている間は、とーぜん観測しないので、時間の経過がわからない。相対性理論でもっても、沖の船が眠っているのと同じだ。
まあ、じつはこの話は、一般相対性理論で展開されていると思うけどね。
でも、たぶん、情報量が時間とは波動方程式で書いていないはず。だと思う。
有名なゲーデル項のだいぶあとの時代の今、不完全性定理と不確実性原理というのがわかっちゃったので、あれれのれなのだ。
あと、まえまえからどっかで言っている、情報量に質量があるの?だけど
わかりません
ということだ。もし情報量に質量が合った場合、魂に質量があるみたいな話になるので、ここは、情報量と、実際の質量などにはまったく関係がないということで保留にしとお項。
たとえば、LANケーブルにめっちゃくちゃ重たい動画を大量に送ったばあい、LANケーブルそのものがめっちゃくちゃ重たくなることはないだろ。それと同じで
ただ、魂は情報量側にあって、時間の観測も、魂側にあるのはわかった。
じゃあ現実の世界は、時間なんかないってことか!?いやだから現実の世界は、色んな世界がいっぱいあるんだ。そこを移動するから時間が発生した気がするのだ、
ぽえええええええええええええええええええn
移動、するのはなんでなんだろう。移動したいからかな。もしかして
存在を、存在したいからじゃないかな!!???????
いきなり暴論
そっか、存在が気になるからか!!存在が気になる時、その時、時間を移動するんだね、博士!そうじゃ!
そんな、中、色んな、地平の中に、存在が移動しないような時があった、それが2003年の9月。
つづく
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