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試金石の王冠

世界は昔から大して変わっていない

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テレビや新聞などの表メディアしか見ないとか、政府の大本営発表しか信じないという人は知らないかもしれないが、ここ数週間の間にも大きなニュースがいくつかあり、事態は着々と進展しているように見える。

コロナ騒動は、世界を二分する巨大な試金石のようだ。

ひとつは、

・コロナが怖い
・ワクチンを打ちたい
・自分だけが助かりたい
・自分が助かるためなら他人を犠牲にする

という群。

もうひとつは、

・コロナに関する公式データを冷静に観測
・それによってワクチンの必要性を感じていない
・リスキィな新薬で死亡する人をひとりでも減らしたい
・自分が犠牲になっても正確な情報を発信

という群だ。

簡潔に表現すれば、自分の頭で科学的・論理的にものを考えられる人間か、選択や判断、生き方すべてを他者や他人、外部に依存している家畜か、というところだろう。

世界が、特定少数の支配者と、不特定多数の被支配者に分かれている世界の構造は、もう何百年以上も変わっていない。否、もしかしたら、人類の歴史は、はじまった当初から、支配する側と支配される側に分かれていたのかもしれない。

この日本においても、もう何十年と、その二重構造に本質的な変わりはない。コロナ騒動によって露呈しただけだろう。今も昔も、多くの人は、ほんの少し考えればわかることさえ、わからない。人間は劣化する一方で、今の日本人は、もはや、ほんの少しも自分の頭で思考することさえできない家畜、奴隷の位置に落ち着いてしまったようだ。

ただ、巨大な試金石のおかげで、今後は、その勢力図が大きく転換する可能性も出てきてはいる。

この後、世界はどうなるのだろうか。

薬で病は根治しない

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2019年の秋頃に予想した通り、世間の話題はワクチン一色となっている。DSを長年観測し続けてきた身としては、当たり前の結果だ。驚きはない。

以前、どこかのエントリで、便宜的な目的もあって、「僕は反ワクチンではない。安全で効果があるなら打ちたい」と書いた。けれども、よくよく考えると、やはり僕は反ワクチンなのかもしれない。(というか、はじめから自覚していて、あのように書いた)

反ワクチンという言葉の定義はよくわからない。しかし、ワクチンというものについては、安全性や効果について科学的根拠のあるものではなく、どちらかというと身体には危険なものであると、昔から認識していたし、歳を重ねると共にいろいろな情報に触れ、外部から薬品を体に入れて、病気を防ごう、治そうという考え方事態に賛同できないという考え方が強まっていったように思う。薬で病気は根治しないからだ。

自分の健康を決めるのは、日常的な生活習慣や食生活、物の考え方である。それを疎かにして病気になったから、外部から薬を入れてなんとかしようとする考えは、浅はかだと、僕は思う。病気になりたくなければ、正しい生活を積み重ねるしかないし、病気になっても、自分の免疫力や自然治癒力を高めて、自然治癒するのが、生き物としての本質だとは考えている。(体調不良を根治するにはそれ以外の方法がない)

高齢になれば誰だって弱くなるし、あらゆる生命は、生きている限り、いつか最後は必ず死ぬのだ。

僕は、丸山健二先生の影響もあり、常に「この世は生きるに値するのか?」と自問している人間なので、それら自然の摂理に抗い、生に執着する人間が、地球上で一番醜い動物に見えてしまう瞬間がある。

潔く死を受け入れるのも、一つの選択ではないだろうか。

反ワクチンという言葉に含まれるニュアンス

というわけで、僕のような人間には、反ワクチンというレッテルが貼られることだろう。「反」とつけると、不思議とワクチンが正統派なもののように聞こえるし、「反」ワクチンの人たちは、なんとなく悪い人たちのような印象に聞こえるから不思議なものだ。日本語の持つ幅広い自由さを、メディアは上手に利用して、印象を操作しているなと感じる。それだけ、今回のワクチン(正確にはワクチンではなく、遺伝子注射と呼ぶべきだろう)を大勢に打たせたいという、体制側の思惑が強いのだろう。

しかし、そもそも、今回のワクチンは、打ちたい人は打てばいいし、そうでない人は打たなければいいという程度のものである。(打ったって、他者への感染を予防する効果は認められていないとメーカも行政も認めている)

にも関わらず、それを打たないというだけで、「反」ワクチンとレッテルを張るのはいかがなものか。

日本は、憲法や法律によって、国民の自由が保証されている。

お米を食べたい人は食べればいいし、そうでない人は、パンでも蕎麦でもパスタでも、好きなものを食べればいい。ワクチンに限らず、薬や医療だってそうだ。あらゆる選択は、個人の自由に任されている。

肉を食べない人を、「反肉」「反ミート」とは言わないし、砂糖を摂らない人を「反砂糖」「反糖分」とは言わない。音楽を聞かない人を、「反音楽」とも言わないだろう。

けれども、今回のワクチンについては、それに近づかない人、興味をもたない人にまで、自動的に「反」のレッテルが貼られて、なんだか悪い人たちのような印象を与えるように、情報が操作されている。

その不自然さに気づける人は、どれだけいるだろうか。

この世は理屈と数字でできている

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この世は理屈と数字でできている。こんな当たり前で簡単なことは、僕のような愚鈍が言わなくても、多くの聡明な皆さんはわかっていることだろう。しかし、それがわからない人は、今回の騒動にまんまと騙され、意味も効果もないマスクをしたり、ワクチンを打ったりしている。

騒動に騙されている人は、事実をまったく見ていない。テレビや新聞などの主要メディアが報道する、偏向や誘導、扇動色の強いバイアスの掛けられた情報に脅されて、恐怖しているだけだ。(PCRの陽性者を感染者と偽っていること一つ取っても、今回の騒動におけるメディアの報道は、半ば犯罪的だ。)

しかし、政府が(わかりづらい場所だが)公式に発表しているデータ(事実)を見れば、日本人の99.9%以上が、今回の新型コロナウィルスというものに無関係であることがわかる。まったくパンデミックではない。それがわかれば、緊急事態宣言がしつこく発令され、安全性の不確かな新薬が緊急承認されている異常さにも気づくことができるはずなのだが、多くの人は、体制側の意図通りに右往左往するだけの家畜なので、多分無理なのだろう。
(おそらく、事前のシナリオでは、日本国内でも、もっと大きな被害が出る予定だったろう。しかし、そうはなっていない。なっていないけれど、政府の動きは、当初の予定通りの動きになっているから、致命的な矛盾構造ができあがってしまっている。これが大きなヒントになっている。なぜ、予定通り行かなかったのか?)

ここで、急なたとえ話だが、

目の前にリンゴが2つあるとする。目の前にあるなら、それは事実だ。

リンゴ(食物)を食べると、カロリーが摂取できて、体を維持できる。

これも長年の科学が産み出した事実である。このように、事実や存在、物質を中心に据える考え方を唯物論という。

反対に、

「目の前にりんごがなくても、私が、ここにリンゴがあると思えるのだから、リンゴは事実ここにあるのだ」という人がいる。

また、

「食物を食べなくても、私は生きていけるのだ」という人がいる。

証明できる事実や存在、物質がなくても、空想が可能なら、それは常に存在しているとするのが観念論だ。

コロナ騒動に対する日本人の反応も、すべて観念論であろう。

多くの日本人は、コロナウィルスの存在は確かめられているのか? 感染症としての被害実数はどうなっているのか? といった、事実に基づいた唯物的、科学的なものの見方ができない。

テレビが言っているからコロナはあるに決まっているのだ!
政府が危険だと言っているのだから危険なのだ!
専門家が効果があると言っているのだから、マスクは有効なのだ!
医者が安全と言っているのだから、ワクチンは安全なのだ!

と、証明のできない非科学的な幻想や妄想、観念論に取り憑かれている

定義のない抽象的な、ふわっとした言葉には、証明や立証の義務がない。そういう無責任で曖昧な言葉に支配されるということは、自らの自由を売り渡すということになる。

最後の自由を死守する大切さ

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人生における最大の価値は、自由にあると思う。自由という言葉を明確に定義づけることは難しいが、

どんなものを食べるのか、
どんなものを飲むのか、
どんな服を着るのか、
どんな薬を使うのか、使わないのか、
どんな意見を発言し、どんな情報を取得するのか

こういった、日常的な選択の一つひとつを、第三者の介入なしに、いつでもどこでも選べることが、自由のひとつの本質であると言えるだろう。

しかし、このコロナ騒ぎは、僕ら庶民に唯一与えられた稀少な自由さえも、根こそぎ奪おうとしている。

マスクをしろ!(自由な呼吸さえ許されない)
ワクチンをうて!(個人の体質によるリスクが配慮されない)
外出するな!
誰にも会うな!
営業するな!
酒を飲むな!

今までは、「するも・しないも自由」とされていた、個人の選択や裁量に任されていた判断や行動を、国や政府、資本家や支配者から、根拠もなく強制される事態そのものが、紛れもない不自由であり、個人の尊厳や人権を無視した異常事態であることは、懸命で聡明な人たちに理解できるだろう。

その騒ぎを起こしている連中は、もれなくグローバリスト、グローバルエリートと呼ばれる支配者層の人間たちである。

グローバリズムというのは、国際化などという生易しいものではなく、共産主義、社会主義、全体主義による世界支配だ。つまり、お前らのようなくだらない奴隷、家畜には、自由や尊厳、選択の余地など与えないのだという選民思想にも通ずる危険思想だと思う。

(グローバリズムというのは、ワクチンとはレベルの違う話である。僕は当然、誰かからレッテルを貼られる以前に、反グローバリズムの立場である)

恩師は、

「環境と生き物というのは、本当に怖いものだ」

と、よくこぼしていた。(これは、あらゆる生き物は、否が応でもその場の環境と相互に浸透して、その影響を強く受け、逃れられない不自由さがある、という意味だ)

いち個人が、自らの自由意志のもとで選択していると本気で思っていても、実は、社会環境や情報に踊らされているだけということはよくあることだ。テレビによる情報の洗脳によって、コロナを極度に怖がっている人たちが好例だろう。

ひとりの意志ある人間として、本当の意味での尊厳を保って生きるには、油断してはいけない。ほんの少しでも気を抜けば、あっという間に社会の支配環境に取り込まれ、情報に操作、扇動されて動くだけの、ロボット人間になるのだから。

「トランプなんかに頼らない!」と声高に叫ぶ人

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(目が多少見えなくなっても、風太は風太。相変わらずの天真爛漫は変わらない。動物は、自らの運命や宿命、死期や老いに逆らわらない。死に執着することもなく、どれだけ体が衰えても、懸命に、必死に、健気に生きて行く。こういう犬たちの生き様は本当に美しく、僕ら人間も見習わなければいけないなと、教えられる。)

トランプ大統領が、ビッグテックの言論弾圧に対していよいよ動きだした。Qmapを読み込み、Qの本質を理解している人たちにとっては、もちろんこれらもすべて予定された動きである。

先にも書いたが、僕らに与えらえた自由のひとつに、言論の自由がある。言論の自由は、僕らが享受できる自由の中で、もっとも重要ではないかと思うのだけれど、コロナ騒ぎは、それさえも奪おうとしている。

DSに管理されたFacebook、Twitter、Googleらは、騒動後、露骨に、自分たち支配者側に都合の悪い情報発信はすべて弾圧しようと動いている。それに抵抗していく動きは、当然のことだろう。

いつも繰り返しているが、言い聞かせてわからない人たちには、この世がどれだけ腐敗しているかを目の当たりにさせなければ理解されない。だから、Q陣営は、あえて遠回りをしてでも、庶民の覚醒を促すためにシナリオを組んでいるのだろう。

なかには、そんなトランプさんに対して、声高に、

「トランプなんかに頼らない! 私たちでやるの!」

と、涙ながらに叫ぶ女性もいるようだ。

私たちでやるという能動的な部分については同意できる。Qもそれを望んでいるし、この騒ぎは、僕たち庶民全員が立ち上がって、団結しなければ解決しない。

ただ、トランプさんも仲間のひとりなので、役割が違う相手を認めて、団結しながらひとつの方向を目指せばいいだけだと、僕は思う。
(というか、そもそもあの時、2016年にトランプ政権が発足していなかったら、今の2021年は、あなたが声高な正義感を叫ぶことさえできない社会になっていたので、トランプさんに頼らないつもりでも、実はすでに結構助けられているんですよ。そこは重々承知していただきたいと思います。)

声高な正義感をぶる人は、大抵、深層心理では、深刻な劣等感に苛まれていて、表向きの行動や動機と、裏側に隠された真の動機にギャップがあるナルシシストの可能性があるので、近寄る際には用心が必要。これは、加藤諦三さんから教わった、読み方だ。

以前から懸念しているように、このムーブメントにも、同じ方向を向いているように見せながら、実はDSの手先という人たちが複数人紛れ込んでいる。そして、そういう人たちが一定の支持を集めているのも、ありがちなパターン。(そういう連中が、提訴されたビッグテック側のサービス上に存在している。Eriさん曰く、デジタル刑務所というやつ。)

彼らも、このままいったらDSの母体から尻尾切りをされて、自分も屠畜されることに気づいて覚醒したのかな?

うーん、ちょっと好意的に見すぎでしょうか。

警戒は怠らないようにしましょう。