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小説家 丸山健二先生にお会いして

本を読まない人、他人の気持ちがわからない人が増えている

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神保町の東京堂書店で、約十年ぶりに開催された丸山健二さんの講演会に参加してきた。

僕が神保町を訪れるのも、約十数年ぶりだろうか。楽器街の御茶ノ水が近いこともあって、ミュージシャンだった頃にはよく出入りしていた。昔はたくさんの本屋が立ち並んでいたけれど、それも今は昔。複数あったはずの三省堂も一箇所を除き、スポーツ店などの店舗に変わってしまっていた。

あらゆることは、流動的に変わっていってしまうものなのだなあと、わかってはいるものの、切ない感情ばかりが湧いてくる。

本を読む人が減った。
出版業界が不況だ。

そう叫ばれるようになって久しい。原因はいろいろとあるだろうが、それが時代の流れか。

読書は、他人の気持ちを理解する能力を身につけるための、ひとつの大切なプロセスである。なぜなら、本(例えば純文学を含む小説)には、人工的な創作物とはいえ、たくさんの登場人物たちの思考や心理が、如実に、赤裸々に描かれている。幼い頃から、そういった、自分以外の大勢の他者の思考や心理に触れ続けることで、少しずつ、生身の他人の気持ちもわかるようになる。これが、僕の昔からの持論だ。

本を読む人が減ったことと、他人の気持ちが理解できない人間が増加し続けている事実に、なんらかの因果関係を感じざるをえない。

生の丸山健二先生はとても穏やかだった

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定員150名前後と思われる会場は、ほぼノー集客だったにもかかわらず、9割以上は席が埋まっていた。来場客のほとんどが50代〜60代以上の壮年男性で、女性の姿は数えるほど。30代はおそらく僕ひとりで、20代らしい人が2名いた。

定刻になって現れた、実物の丸山健二さんはスキンヘッドにサングラス、全身黒ずくめ。いつもの写真や画像で何度も見慣れた、いかつく、たくましい姿だった。しかし、生の丸山先生は、普段の、鋭く尖った、攻撃的な文章からはほど遠い、物腰の柔らかい、穏やかな方で、とても饒舌。親しみやすい気さくな雰囲気を持つ方だったのが、意外だった。今年で、もう76歳だという。

「自分もとうとう後期高齢者になってしまった」

ひとつの道を徹底して歩き続ける熟練の人特有の哀愁が漂う表情で、けれども、少年のように澄んだ瞳で、そう何度か繰り返されていた。

講演時間は1時間半ほどだっただろうか。10年以上、丸山先生を追いかけてきた身としては、特別に真新しいお話はなかったけれど、改めて、いろいろなことについて考えさせられる貴重な時間だったと思う。

「我々は常に人の世界に生きている」

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・ナルシシストになるのは、劣悪な環境で育てられた人間か、もしくは、その真逆。裕福な家庭で育った人間もそうなる傾向が強い

・その中間に位置する一般的で平均的な人たちのほうが、案外、冷静で冷徹、中庸な視点を持っている

・ナルシシズムに満ちたくだらない文学小説は、私から言わせれば、ピアノでいう「猫踏んじゃった」程度のレベルのものに過ぎず、モーツァルトやシューベルトの崇高なレベルにはまったく至っていない

・そういう低俗な文学小説を支えてきたのは、紛れもなく、物事を、自分の都合のいいようなイメージで解釈することしかできない、低俗な読者たち

・川端康成は、婚約破棄をされてから、ナルシシズム一辺倒の作品づくりに没頭するようになった。女にモテたとか、二人の女に挟まれ悶えたとか、実に低俗なくだらない内容ばかりだった。そういう劣等感の裏返しとして、人は、自己陶酔の世界に入っていく

・出版業界が地に堕ちるのは、昔から、時間の問題だとわかっていたし、自明の理

・仕事が欲しくて編集者を接待し、もてはやし、ちやほやする作家

・それを本気に捉えて、「オレは名編集者、名編集長だ」とのぼせ上がり、奢ってしまった出版関係者の存在が業界を落ちぶれさせた

・文学がカネ儲けのネタになってしまった歴史がある

・芥川賞はドル箱。ブランド化でカネ儲けのネタにしているだけで、受賞作家でさえ、2作目、3作目は出版社から相手にされない、出版社は相手にしない。そんなことをするより、目新しい作家に賞を受賞させて、世に宣伝したほうが効率的に儲かるから

・私の作品は、読者に現実を徹底的に突きつける。しかし、現実から目を背け、自分にとってのみ都合がよく、心地よい妄想や幻想に浸りたいだけの読者からは総スカンを受ける。酒場で酒を飲んで気持ち良くなっている連中に、「酒はカラダに悪いから、酒など飲むのはやめて牛乳を飲め!」と言っているようなものなのだから、受け入れられるわけがない

・私たち人間は、常に「人の世界」に生きているのだから、その「人の世界」を冷静に、冷徹に見つめられるようになるべき。

・都会は人が多すぎるから、どうしても他人のことを見て見ぬ振りをしてしまう傾向がある。なぜなら、人が多すぎて、いちいち他人を見ていたら面倒だから。しかし、田舎は、めったに人と出会うことがないので、誰かと出会えば、他人を観察する傾向がある

・他人のことだけではなく、自分のことも冷静に見つめる。なりたい自分、理想としている空想の自分を愛でるのではなく、自分のいやらしいところ、ダメなところを客観的に見られるようでなければいけない

・作家になるためには、人に興味を持ち、他人を徹底的に観察、観測できるようでなければいけない

・たとえば電車の中で、隣にいる人同士の会話にそっと耳を傾ける。はじめはなんの話かわからないかもしれないが、だんだんと理解できるようになる

・人の顔つき、服装、歩き方、声色、しゃべり方。そういった些細なところから、「この人はどういう人なのだろうか?」と考える習慣をつけること。練習を重ねるほど、いずれ必ずできるようになる。他人がわかるようになる。

(その他、丸山塾の塾生に関する話題などもあった。父親が三菱重工で潜水艦を作っているという高校生が入塾してきたというエピソードの際、「潜水艦製造なんて、まるっきり右翼なのに、私のような左翼に息子さんを預けて大丈夫なんですか?」と聞いた、笑い話があった。この時、僕は、「そうか、丸山さんは左翼なんだな。だから、会場のお客さんにも、なんとなく赤っぽい人がいるのか」と認識した。しかし、僕自身は右でも左でもないし、僕の丸山先生に対する認識は、左翼でも右翼でもない「まっとうな憂国者」である)

上記したのは、丸山先生の直接の言葉ではなく、一部、僕が解釈した言葉として編集してあるが、概ねこういった内容の講演だった。

ナルシシズムによって破壊されたのは文学だけではない

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講演会は、テーマが「人の世界」であったが、事前の打ち合わせをあえてしなかったそうで、話題が多方に散ってしまった感は否めない。最後には質疑応答の時間もあったので、もう少し、丸山先生のナルシシズム感? について「先生は、なぜナルシシズムがここまで世間を席巻してしまったとお考えでしょうか?」と、お伺いしたいと思っていたが、質問者が多く、時間がなくなってしまったのが心残りだ。こういう機会はめったにないと思っているが、今後は定期的に? 開催されるとのことなので、次の機会に見送りたい。)

僕が、ナルシシズムという言葉を知るきっかけになったのは、丸山先生である。先生は、ナルシシズムが文学を破壊した、という趣旨のことを長年発信し続けておられる貴重な方だと思っている。

しかし、ナルシシズムというものを理解すればするほど、その恐ろしさは、文学の破壊にとどまらないことがわかってくる。

日本は、高度な洗脳化が進んだ劣悪社会であるということは、過去にも何度か書いてきたが、多くの日本人は、支配層の都合のいいように動くだけの、まるでロボットか家畜のような存在に成り下がってしまったように思う。

「現実から目を背け、自分に都合のいい、心地よい妄想や幻想に浸りたいだけの人」というのは、なにも文学小説の読者に限ったことではないだろう。

多くの人は、世間から提供される、見掛け倒しで子どもだましの娯楽コンテンツに夢中である。それは、ゲームでも、スポーツでも、アイドルでも、テーマパークでも、音楽でも、酒でも、グルメでも、小説でも、旅行でも、なんだっていい。

日を追うごとに劣悪さを増していく日本社会に目を向けることをせず(というか、気づかない)、短絡的でインスタントな快楽によって、自分がいっとき気持ち良くなりさえすればよいという、刹那的な感覚の人で溢れているように思う。

劣悪な環境によって生まれた、大衆的なナルシシスト。
裕福な環境によって生まれた、支配者側のナルシシスト。

大衆的ナルシシストは、自分の快楽にばかり目を向ける。他人のことなど考えられない。

支配者側のナルシシストは、自分たちの顕示欲や支配欲を満たすために、大衆的ナルシシストを支配下に置き、操作し、自分たちの力を強めていく。

この二重構造が崩れる日は、果たして来るのだろうか、などと思う日々。

自分のことばかり考えていないで、みんなで一致団結して楽しくやろうぜ! なんていう僕が、誰からも相手にされない理由がよくわかる。

みんな、自分大好き。自分に夢中なんですよね。

「だれとも群れないイヌワシのような人間になるべきなのかな?」

そんなことを考えた夜でした。