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藤井風が、渋谷まで行かずに池袋駅で降りてくれそうな青年になっていた話


※この記事は個人の感想です。


以前、私に藤井風さんを教えてくれた淑女の話を書いた。

彼女はとても美しい人で、前職は小粋なセレクトショップの販売員だった。だから彼女自身もとてもかっこいい。そんな彼女が見せてくれた藤井風さんの画像は、またまた本当にかっこよくて、「こりゃ、サブカルな古本をあさる青春時代を送った私には別世界、彼女のようなお洒落で洗練された人にぴったりだな」と思っていた。


彼女から初めて「藤井風」という名前を聞いた2020年2月、まだ世間一般に名前が浸透していた頃では無かったため、「こんな人がいるんだけどね…」と頬に恋の恥じらいを浮かべて紹介する姿がとても印象的だった。

その晩、すぐに彼女がお勧めしてくれた「もうええわ」をYouTubeで検索。うわー、かっこよ。

渋谷で息をする藤井風。このMVは私の学生時代の渋谷コンプレックスをザクザクに刺激して来た。
池袋から渋谷までのあと二駅、こんなやぼったい私が渋谷駅に降り立ってよいものかと、恥ずかしさのために足を伸ばせず池袋で降りていた池袋インナーチャイルド(池袋ウエストゲートパーク的な、特に意味は無い)。

池袋までは、学校帰りにそのまま行っても誰にも怒られない気がしていたが(先生には怒られる)、渋谷は「学校帰りにちゃんと渋谷へ行く用のお洒落学生コスプレ」をしないと行ってはいけない気がしていた。そして私はそんな度胸も自信も全く無く。そんなものは、大人びた高校生だけがやれば良いと思っていた。でもそこには、外の世界にすでに触れている早熟な人たちへの憧れがあったし、渋谷にいる正体不明のふらふらしている謎の人は何なんだ、気怠そうでなんだかかっこいい、普段何して生きているんだ、悪いこともたくさん知っているんだろうな、という退廃的でミステリアスなイメージをも内包していたため、このMVの彼はまさにその人物像と合致し、遠い日の憧れが痛いほど胸を突いた。

そして、そのアンニュイな横顔は、私の中で「藤井風は渋谷っぽい人」という、本来の藤井風とは掛け離れたイメージを植え付けた。実際には、岡山県里庄町の美しい透明な空気の中で生きてきた、渋谷のキナ臭さなどとは無縁のよどみない純粋な少年だったのだと後で知るのだけれど。

「藤井風」を教えてもらってからは、『日本語のかっこいい哲学的な優しい歌』を聴きたい時は風さん、それ以外はほぼBTS(以下バンタン)、と、私の中ではバンタンと共にいつも風さんの歌があった。SNSの「いまどうしてる?」を追うのはもっぱらバンタンなので、藤井風さんの日常についてはよく知らない(当たり前だ)。ただただ歌を聴いて幸せを感じていた。もう、それだけで良かった。と言うか、こんなに普通にカッコいい人を私は追ってはいけないような気がしていたのだ。なんせ、好きな男の子の事よりも戦後の闇市に想いを馳せるような、不気味な青春時代の思い出しか持ち合わせていなかったのだから。

ではバンタンはなぜ追えたのか。

それは、バンタンは《アイドル》的な仕事もしていたためだ。『さぁ、僕たちに恋していいよ!』と言わんばかりの、疑似恋愛的な、両手を広げて手招きするコンテンツも多く、そのための仕草やかっこよさが研究し尽くされ、『それでは遠慮なく』と、ギャー!スキー!って、ぎゃー!ってなっても全然オッケー的な安心感があったし、メンバー達にも「ぎゃー耐性」が出来ていた。

でも「藤井風」は違う。そういう人ではない。多分彼は、自分に恋をさせようなんて微塵みじんも思っていない。微塵みじんも思っていないのに、ずるずる引き込んでしまうのだ。
これはヤバいと思った。
彼は恋とは無縁の場所にいて、とにかく、『恋愛マジック』を使わずに目一杯皆んなを幸せにしようとしている。それだと、「恋しちゃいけない。」って思うではないか。あんなにカッコいいのに、そりゃ無理だって。

淑女の友人が、恥じらいの頬で慎ましやかに藤井風を紹介してくれた気持ちが分かった。
私は逆に、ジャイアンのリサイタル並みのテンションで唾を飛ばしながらバンタンを語っていたのに。それが迷いなく出来たのは、バンタンが『さぁ、好きになっていいよ』的な、開かれたアイドルオーラを全開にしてくれていたからだった。

「実は…好きな人がいるの」という、しっとり、こっそり、しとやかに。まるで白魚しらうおのような美しい手で耳打ちしてくるような、内緒話のテンションにさせる風さん。そこには、「あの、好きになってもいいですか?」と伺ってからハマりたくなる、藤井風マジックがあった。

とはいえ風さんも、お父様から「人気者になりなさい」と言うようなことを言われていたということだが、その「人気者」の意味は『アイドル的な』ではないのだ。「誰にでも同じように接することを心掛け、人を区別しないこと。まずは自分がみんなを愛すこと」という意味なのだから。(MUSICA 2022年5月号より要約)。
だから、あぁ、あなたは誰かのアイドルではなく、みんなのものであるべきだ、と思った。

そんなみんなの風さんにどっぷりハマらぬよう、心はいつまでも池袋を彷徨さまよう内なるサブカル女子を引きずっていた私の前に、ある日突然、心の電車の扉をこじ開けて藤井風が降り立った。

それはあの、紅白歌合戦の夜だ。

年末の紅白での藤井風を見たからだ。

いざ開かん、埼京線の扉を。

あの彼をサブカルチャーと言わずしてなんと言おう。いや、逆だ。ハイカルチャーだ。高度芸術過ぎて大衆文化を外れたものは一周回ってサブカル民を虜にするという魔法が発動。

池袋のサブカル民に扉が開かれた瞬間だった。
そこは渋谷では無かった。

「死ぬのがいいわ」はすでによく聞き込んでいた歌だというのに、モザイク処理文化の無いフランスのテレビで見た「愛のコリーダ《無修正版》」が脳裏に蘇った。愛する人を殺めた後の阿部定のあの怖いほど色気のある微笑みが。

ここは気怠い渋谷の街じゃない。池袋の古本屋で見つけたアート写真集の中なのでは。めちゃくちゃサブカルな世界なのでは。
さぁ、いざ、開かん。(埼京線の扉を)

でも勘違いしてはいけない。この歌は実は、恋の歌では無い。「自分の中の最強の自分(理想の自分)を忘れてしまっては死んだも同然。」というような、自己完結をしている歌なのだ。だから、この風さんを見て変な気を起こしては絶対にいけない。彼は彼なのだから。「藤井風」が自分を通して、聴く人それぞれの中にいる自分を、それぞれが大切に出来るように鼓舞してくれている歌だ。

そうは言ってもね。あの彼に対して恋を連想せずに見るなんてね。難しいよね。だって人として魅力的過ぎるよね。

ちなみに『愛のコリーダ』は芸術作品としてとても高く評価されているので、妙な気は起こさずアートとして純粋な心で見ましょうね、ってとこも「藤井風」と重なった。

そしてここには紅白の、その風さんを貼りたいのだが、NHKの映像なのでもちろん不可能だ。それならば、池袋サブカル民に扉が開かれたお祝いの歌「まつり」を。本当はそんな意味で書かれた歌ではないよ!もちろん。分かっとる。そう、もっともっと素敵で四季感のある綺麗な歌だけれど、もう私には、《何でも好きに選びな、あなたの心の中 咲かせな》が「あ、私、心はずっと池袋にいていいんだ」というお祝いの言葉にしか聞こえなくなってしまった。


藤井風さんのファンの皆様は良くご存知のことだけれど、風さんは本当に優しい人だ。心底優しい。余談だが、風さんに『英語』という盾があって良かったと心から思った。優しい彼の柔らかな心を守るには英語のペルソナ(人格)は必要だ。

母国語のペルソナと英語のペルソナについて書いた記事はこちら(記事中盤部分「(BTSリーダーRMの発言)たまには英語で話す方が本当に楽です」から)↓


さて、結果的に、こう考えてみると「藤井風」は来るもの拒まずなのだった。ファンクラブを作らないのも、誰も縛りたくないという思いからだとマネージャーはつづっていた。確かに、岡山在住時のYouTube投稿の選曲を見れば、彼の人の良さが十分に分かるではないか。

1997年生まれの男の子が、高校の入学試験のピアノ曲に、他の生徒がクラシック曲を選ぶ中でピンク・レディーのUFOを弾いて見事合格するなんていうところも。

本当は、きっと、池袋の古本屋も楽しんでくれる藤井風さんなのだった。

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