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藤井風の思想観は生活の芸術


海外には自分が信じるものを持った優しく美しい青年はたくさんいる。私は、日本にいながらまたそんな人と出会えた事をとてもラッキーだと思った。風さんを見ると、普段は行けないような旅先にいる不思議な青年と出会ったような嬉しさや、ドキドキワクワクした思いを感じないだろうか。

何かを変えたければまずは自分に語りかけ、執着を手放し、必要ならば物の見方を変える。自分の中を愛す。そして、自分の喜びと人の喜びは繋がっている。

これは、様々な芸術から誰でも知ることが出来る、時代を超えた普遍的なメッセージ。

何の区切りも無く、誰でも分け隔ても無く、国籍・宗教・哲学・文学・美術・音楽、どんなジャンルでも素直な気持ちさえ忘れなければいずれは同じような答えに行き着く人間の普遍の真理。そして、風さんの目的はそこにあるのではと思う。何か目新まあたらしい事を言いたいのではなく、シンプルに、こういったメッセージを「あなたの大切な時にそっと思い出して欲しい」のだと。

私がヨーロッパで過ごしていた時期、ほとんどの人が自分の信仰を強く持っていたことに驚いた。それは生活の中に溶け込んでおり、他人が深く介入する事は無く、それぞれが持つ違った教えが同時に並行して日常生活が送られている。たとえば、断食を行う時期になれば、その宗派のクラスメイトを食事には誘わないでおく、そして無事に終了すればまた一緒にご飯を食べる。それぞれが自分の生き方を尊重し大切にしている。風さんや河津マネージャーが言う「カジュアルな宗教観」とはこの様な事を言うのではないだろうか。家族ごとに違う生活様式があって、それは当たり前の事として受け入れた社会の営み。

もちろん、過度な信仰心が原因となる争いは日常生活でも勃発はするが、それは元を辿れば「他の人を受け入れない」「他人の領域をおかし自分のものにしたい」という、人間性の問題から来ている。

「人間性・人格が良ければ」なんてただの綺麗ごと、そして理想論だと思われるかもしれないが、実際には、家族単位や人間関係単位で起きる争い事の多くは個人の人間性から来た問題が核を成している。

そして、実は世間で言われている「善悪」など、時代や地域によって変わってしまうため、あって無いようなもので、その時代やその場所で「ちょうど良い落としどころを見つけたもの」が「善」と成り得る場合がある(チャップリンの名セリフ 《1人殺せば犯罪者、100万人殺せば英雄》のように)。そうなると、やはり本当の「善悪」は、内なる自分の心に問うしかないのだ。

その時代、その場所、そのコミュニティーにおいて賛同する者の数が多かった事柄が「正しい」と錯覚されるだけで、それは「善」とはまた異なる。「その時の正しさ」と「善」の見極め方は簡単で、10年、100年、1000年経っても変わらず人々の心を癒すものは「善」だと思う。逆に、ただ「賛同者が多かっただけの事柄」は、一時的な思い込みであったり、その時代を乗り越えるための便利な洗脳であったり、流行りでいえば一過性の旬で終わるだろう。本当に良いものは時代も地域も飛びこえるパワーを持っている。そしてそれは、時間とともに「生活の芸術」として美意識や価値観として根付き、人々に愛されて行く。風さんは、この「本当の善」の部分を歌う人なのだろう。

風さんの作品が、リリースしてから数年後に再度掘り起こされ、リバイバルヒットする理由はこのためだろう。それらの歌には「旬」という概念は無く、逆に言えば常に旬でありそれに気付くタイミングが来たかまだ来てないか。楽しいだけの旬ではなく、人間の苦悩もまるごと旬として捉えている。風さんは苦悩を生きがいに変換する術を持っており、それは生きていく上では最強の処方箋だ。だからいつの時代でも何歳になっても求められる。普遍的な童謡のようだと言われる理由もここだろうし、年齢に関係無く愛されていく。

これは私の考えだが、風さんという人は、どんな環境で育ったとしても、誰かの幸せの手助けをしたいと願いながら歌を書く人だったのではないだろうか。元々の性質がそのような穏やかな優しさを持った人なのだと。あの揺るぎない生き様には、環境や条件を卓越した芯の強さを感じる。


風さんの音楽。

それは「日常生活の中で突然降って来る」という感覚がある。

「伝えてくるタイミング」のせいなのか。息をするようにラフに鍵盤を叩き始めるからなのか。
まるで全て分かっていたかのように、歌詞を届けてくれる絶妙なタイミング。これは、彼が誰しも簡単に触れられるポップなエンタメの世界から発信している人だからこそであり、そしてその「作品を届けるタイミングの良さ」は天性の才能だと思う。この才能は、「利己的な優しさ」を持ち合わせず、誰かのために歌いたい、という優しさを持っているからこそで、風さんの歌を必要としている誰かとチューニングが合い、その時に必要な歌が耳に触れる。

人には人生の中で「当たり前に正しい」と思っていたことが、分かっていたはずのことが、分からなくなる瞬間が何度か訪れる。そこはまさに人生の分岐点。さぁここで間違ってしまっては大変。
当たり前に分かっているはずだった「良いこと」が分からなくなる時。
子供なら分かるはずなのに、大人だからこそエゴが働き分からなくなる時。そんなタイミング。だから、自分が真っ当な考えを保てている時には「それはそうだ」、と目の前を通り過ぎてしまっていた歌詞が、何かの拍子に戻りダイレクトに突き刺さって来るのが風さんの歌。温かく包み込むようなハミングや声と、どこまでも歩いていけそうなメロディが、歌詞を通り抜けて心臓や記憶に伝わって来る。

「誰かがちょっといい気分で人生送れたりするために音楽をやっているようなもんなんで、もうそれがわしにとって全てっていうか、もうそれだけで生きていけます。わしも。」

川の流れの中で小石がどこかに引っかかってしまった時。風に乗っていた羽がくるくる回転して流れへの乗り方を忘れてしまった時。飛び方をうっかり忘れてしまった時。

でも、諦めてしまって自ら答えを探しに行こうとも思えない時。

そんな時、ちょっと流行りの歌を聴いてみる。風さんの歌声が聞こえてくる。風さんの歌詞が耳に入る。それは本当に、まるで昔からある、優しい童謡のよう。

風である藤井風がさっと手を握って引っ張り、風の流れに乗せ直してくれる。そしてまた1人で飛ぶ事が出来る。その手助けをしてくれる人。

「この風のって進め先へ」
「うちなる風に吹かれて」

迷った時に軌道修正をしてくれる、そんな風。

しがみつきたい時にしがみついて風に乗ればいいし、ひとりで旅してみたくなったらどこかの街に降りてみればいいし。そんな自由な風。

大きなリュックを背負って世界を旅しているような、そんな綺麗な風。


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