何故恵まれない人間は努力しないのか?

特別支援学校出身の発達障害児が3年で偏差値を65上げ筑波大学に現役合格した話

私は中学まで特別支援学校に通っていた。高校から普通高校に行ったのだが当然授業はさっぱり分からない。私の通った高校は所謂名前さえ書ければ入れるクロマティ高校であり、入学時にそれまでの単元をちゃんと履修してるか?等の確認は勿論しなかった。この高校を知った時は「最高かよ!」と思ったが実際に入ってみると、それは「私に限らず生徒みんな授業の内容とか分からないので先生も教える事を諦めて淡々とマニュアル通りに物事を進める」という形で牙を私に牙をむく。つまり私に限らずあらゆる生徒が先生に分からないから教えてくれ的な事を言っても「教科書を読み返して下さい」で全てシャットアウトなのである。

勿論教科書を読み直してみても分からないモノは分からない。オマケに私は言語は理解していたものの中学3年生まで発音出来ず、高校1年の時は人より3倍遅く途切れ途切れに言葉を発せられるようになったぐらいなので周囲の生徒ともコミュニケーションを取れない。幸い学校をサボって秋葉原に行きエロゲーショップに入り浸るようなオタク仲間には恵まれたが、当然彼等に勉強のことを聞いても「俺も分からん」と返されるだけだった。更に言えば入学時に私の喋り方や出身校をからかってきた生徒と揉めたり、虐められているオタク仲間を庇った…ハッキリ言えば虐めっ子に危害を加えたり、鉄板やヤスリ等の武器を学校に持ち込んでいた事で、私は学校では「武闘派の不良」と見做され、虐められる事こそはなかったものの非常に厳しい立場に置かれていた。

そんな私だったが進学校から虐められて引っ越してきたガリ勉君と薬物問題を通じて友達になり、彼から話を聞く中で私はそもそも小学1年生レベルの学力もない事に気付いた。例えば漢字は読めはするが自分の名前以外は書けないし、計算は4則演算は出来るが3角形の角度の合計が180度になることも知らなかった。

「つ…まり…なら…どうすれば…いい…と思う?」と絶望する私に対し、ガリ勉君は「どうすればって今から小学生の勉強をやるしかないじゃないか?」と私に自分が使っていた小学校・中学校の教科書やドリルをプレゼントしてくれた。そして私は高校の授業中に必死に小学生のドリルを解き、分からないところがあればガリ勉君に聞くみたいな形で学力をつけていく。更に私は塾に通っておらず(義務教育終えても親に衣食住を支援して貰うという発想自体が無く、当たり前のように親に衣食住支援して貰ってる普通高校の生徒の感覚がサッパリ分からなかった)模試?統1テスト?を受ける事も出来なかったが、ガリ勉君からテスト問題用紙を貰いそれを自己採点することで大体の偏差値を知る事も出来た。そしてエロゲーで得た金を使い筑波大学に願書を出し、現役合格を果たす。

このように環境に恵まれない人間でも諦めず頑張り続けていけば努力は必ず報われるのだ。

なわけないだろ

こんな話は例外中の例外に過ぎない。少し考えれば分かるように、この話は「ガリ勉君が虐められてクロマティ高校に来る」「ガリ勉君と友達になる」という2つの偶然が無ければ成立しない話だ。後者はともかく進学校の生徒が虐められたとは言えども、クロマティ高校に転校すること自体が通常では考えられない話だろう。ガリ勉君がいなかったら、私はそもそも勉強の仕方…というか自分の学力…すら把握出来なかった。換言すればこの話で示されているのは努力の大切さではなく運の大切さだ。

私の物語に努力ないし工夫ないし根性といった事後的な美徳を結び付けるのは簡単だ。しかしながら、上記の通り私の成功?は大部分が運に寄与するものであり、極論から言えば私の人生は私がコントロール不可能なものによって左右されてしまっているという見方も出来る。

私の事例に限らずこの手の成功談…困窮の中にある人間が汗と涙と努力にとって自らの境遇を乗り越える物語は枚挙に暇がない。そしてその物語を棍棒にして恵まれた人間は恵まれない人間を殴りつける。「こんな逆境から這い上がった人間がいるのだから、貴方の境遇は努力しなかったが故の自己責任である」と。しかしそれは「恵まれない人間は努力してない」という前提に基づくものであり、もっと言えば「貴方が恵まれないのは努力不足だからだ。何故貴方が努力不足かというと貴方は恵まれてないからだ」というトートロジーに過ぎない。

私には私と同じ…それ以上に聡明だったり勤勉だったり努力家だったり人間性に優れた知人がいた。しかし不遇から抜け出せたものは1人もいない。虫が大好きで気持ち悪いくらい上手な虫の絵を描いていた友人は健常者からの投石によって視力障害を負い、仲が悪いにも関わらず飢えてる私にサルトリイバラをくれた心優しきクラスメイトはホームレスになり健常者に熱湯をかけられ殺された。彼等と私を別けるものは努力でも能力でもなく運である。

困窮は常にハイリスク

何故困窮から抜け出せる人間が少ないのか?というと、それは「困窮者は常にハイリスクな選択を迫られるから」に他ならない。

例えば貴方が1張羅のスーツを持ちネット喫茶を仮の住処として職を探す貧乏な難民だとしよう。貴方はやっとの思いで見つけて面接の約束も出来た企業に行くべく、スーツを着こなしネット喫茶で清算を済ませて外に出る。しかしその時、不幸な事にスピード違反をしてる車が貴方の前を横切り盛大に泥を飛ばしてきた。スーツもシャツも泥汚れでベッタリだ。

ここで普通の人間なら家に帰ってシャツやスーツを取り替えたり、服屋に行って買い替えたり、クリーニング屋に超特急でクリーニングする事をお願いする事も出来るだろう。だが貴方の財布には企業に行くだけの交通費しかない。企業は面接後合否に関わらず交通費を出してくれるのだが、当然この場でキャッシュレス送金を頼むみたいな事も出来ないだろう。結果、貴方は泥汚れベッタリのスーツで面接に向かい「非常識な貧乏人w」として不合格。企業が出してくれた交通費を握りしめトボトボとネット喫茶に戻っていく。

このように困窮は普通なら問題にならないような些細なインシデントやミスが、余裕がなく常に限界状態な故に全てが致命傷になってしまうのだ。

困窮のストレスが脳に与える影響

上記の話で分かるように困窮者は余裕がなく限界状態故に常時「このギリギリの状態がいつ崩れるか?」というストレスに苛まされている。そしてこのストレスは脳の構造そのものを変えてしまう

例えばデューク大学で行われた貧乏とストレス研究がある。183人の青少年を3年間にわたって追跡調査し、研究者が彼等の鬱病症状を検査した後、彼等の脳活動をスキャンしながら恐ろしい顔の写真を見せて、 セロトニン生成に関連するSLC6A4遺伝子が3年間でどのように変化するかを観測した。すると貧乏な子供はSLC6A4のメチル化がより多く偏桃体も活発であることが確認された。雑に言えば「貧乏な人間はストレスに弱くなり恐怖に敏感になる」ということだ。

貴方が通常の3倍ストレスに弱く恐怖を感じやすい状態で資格勉強する事を想像してみよう。当然勉強というストレスは貴方の心身を通常の3倍で疲弊させていくし、少し躓いた時の焦燥感も通常の3倍なのでドンドン悲観的な気持ちになっていく。貴方のレッドタイマーが点滅し勉強出来なくなる状態になる時間は通常の3分の1どころではすまされない。貴方は勉強を放り出し、ストレスへの対処やもっと早く確実に努力が報われストレスの少ない方法を求め…例えばゲーム、読書、Xといったコンテンツに注力することだろう。

勉強を放り出しこういった娯楽に没頭する人間を見て、困窮を知らない恵まれた人間は「怠け者」と思うだろう。目先の利益を追い、長期の利益を台無しにする次善の策をとっているように見える。しかしながら、それは困窮してる環境下では合理的な選択なのだ。ストレスで病みそうな時に勉強を続けるのは合理的ではないし、食料が種籾しかない時に種まきするのは合理的ではない。換言すれば困窮とは常に次善の策・目先の益をとる選択肢を強いられる事に他ならないのだ。

それが最も直接的に示されてるのがマシュマロ実験だ。マシュマロ実験とは「子供にマシュマロを15分間食べるのを我慢したらもう1個あげるよ、と言ってマシュマロを渡し子供を1人部屋に放置する」という実験だ。これでもう1個マシュマロを貰えた子…15分間マシュマロを食べるのを我慢できた子…は追跡すると社会的に成功してるケースが多く、自制心の大切さを説く心理学研究としてよく引用されている。しかしながら近年どうも子供の養育環境…特に所得…を入れて分析すると、自制心の強さとの相関性が怪しくなることが指摘され始めた。そして実験を行う大人が嘘をつくのを目撃した子供は93%が1人になった瞬間、即効でマシュマロを食う事が確認された(普通は65%が我慢できる)。要するにマシュマロを早く食べる子供は自制心が弱い云々というよりは「約束が守られる保証がないので即利確した」という話だったのである。明日の保証がない中では未来に投資するのは不合理な選択になってしまうのだ。

因みにこうしたストレスは少なくとも3世代は影響が続く事も判明している。要は遺伝する。

また地域によってもこうした脳の変化は現れることが示唆されている。

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S187892932100092X

皆何だかんだ合理的に賢く生きている

恵まれない人間と恵まれた人間は立ってる世界観がそもそも違うのだ。それ故に恵まれた人間が「恵まれない人間は何かを積み上げることせず怠惰な選択ばかりしてる」と断罪したところで意味がない。何かを積み上げる、未来に投資する、コツコツ努力する…それは余裕と備えがあってはじめて実行可能になる営為だからだ。明日食うモノがない環境で1週間後のクリスマスパーティーのメニューを考える人間はいない。

この問題に明確な解決策はない。そして困窮と不平等に対する理解を深めなければ私達の社会を大きな断裂を迎える事になるだろう…という予言の時は既に来た。もう多くの人間は「1生懸命頑張れば物事は上手く行く」という物語の欺瞞に気付いてる。そしてこの物語を信じる者は、こうした彼等の態度を見て「だから困窮するんだよ!他者のせいにするな!」とより頑なになるだけだろう。

なのでハッキリ言わなければならない。「努力は必ず報われる」という神話は恵まれた者の恵みを、恵まれない者の不遇を肯定するものであり、両者の利害は相反しておりハッキリ言えば敵対関係だ。

我々がこのような衝突によって迫られているのは、もはや両者の融和や平和な解決法ではなく「異教徒を処刑するか?聖典の過りを認めるか?」なのである。

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