女性は「優しい人が好き」というのに、何故優しい貴方はモテないのか?

 この手の話になるとインターネットでは判を押したように「貴方のそれは優しさではなく弱さだからである」「優しいというよりも周囲からの圧力等で自己犠牲的に振舞わざるを得ないからである」「本当の優しさではない」的な言説が寄せられるが、これらは何の根拠もないレッテル貼りである。というのも、この手の疑問には既に実証的な研究が多々あり、既に結論が出ているからだ。そして結論から言えば「優しさはセクシーではない」からである。「優しさ」それ自体は美徳であり、道徳的シグナルであるが女性へのセックスアプローチとしては機能しない。

 例えばロチェスター大学、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校、イスラエルの学際センターの研究者によって行われた研究では「優しさ」の定義を「潜在的なパートナーの心情を理解し、サポートし、関係にリソースを投資する意思があることを示す可能性の高さ」としたうえで、優しさとモテの関係を探ろうと研究参加者にそれまで会ったことのない異性の個人と無作為にペアを作らせた。すると3つの研究で男性は「優しい女性」に惹かれることが判明したが、1方で女性は「優しい男性」に惹かれる傾向が確認されなかった…のみならず男性を優しいと認識したら、その男性に惹かれなくなる傾向が確認された。要するに優しさはモテと無関係どころかマイナスの可能性すらあるということだ。
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0146167214543879

 また「謙虚」「正直」は優しさと近しい距離にある概念であり、また「傲慢」は優しさと反対の概念と言えるが、「イジメっ子は非イジメっ子よりセックスの機会を得ているが、それを別ける性格特性は何か?」を調べた研究では、正直さと謙虚さの低く傲慢度が高い青年はイジメを起こしてモテまくるが、正直さと謙虚さの高い青年はセックスの機会が乏しくなることが確認された。
https://rd.springer.com/article/10.1007/s40806-017-0126-4

 社会的に望まれる男性の優しさと、女性の選択の結果としての彼らの非モテ化という矛盾は、繰り返すが単純に「優しさはセックスアプローチではない」というだけだ。例えば「おっぱいの大きい女性は人間性に優れてる。だからモテる」と言えば、即「いやモテるのは単におっぱいが大きいからで、それで人間性云々は分からんやろ」という話になるが、これは優しさとモテにも当て嵌まる話なのである。上記の「貴方のそれは優しさではなく弱さ」的な言説は、まず「優しいとモテる」という前提自体が過ちだ。当然であるが、人間の欲望と「社会的に望まれる正しさ」は必ずしも1致するとは限らない。そして自由恋愛は良い悪いは別として、自由に相手を選んでもいいが故に選択権のある人間ほど段々と欲望に忠実な選択をするようになっていく。これは女性に限らず男性でも例外はない。

 このような事実をふまえて「貴方のそれは優しさではなく弱さ」という言説を見てみると、単純に女性にとって魅力的な男性を指す"優しさ"は実質"強さ"の言い換えであることが分かる。

 女性に限らず強さを優しさと誤認してしまう事は様々な研究においても指摘されており、最も有名な事例は「ストックホルム症候群」だろう。ストックホルム症候群とは狭義には「誘拐・監禁事件などの被害者が犯人との間に心理的な繋がりを築くこと」とされており、1973年ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立て籠もり事件が語源となっている。131時間に及ぶ監禁のなかで次第に人質達は犯人に共感し、犯人にかわって警察に銃を向けるなどの行動をとるようになり、また人質のなかには解放後でさえ犯人を「優しい」と庇う証言をする者や犯人に恋愛感情を抱く者まで現れた。これは異常な環境下における生存戦略とされているが、大小の違いはあれ人間社会の普遍的営為ではないか?と私は思っている。極端なものだとブラック企業で労基法無視された扱い受けてるのに愛社精神を持つ社畜、パワハラ根性論のトレーナーに心酔するアスリート、「自分が悪いだけだから…」と自分を殴る親を庇う子供、虐めっ子を指して「友達」「遊んでるだけ」と言い出すいじめられっ子、退屈な日常シーンを何10時間もいれるエロゲー、佐久間まゆ…人間は「強さを優しさと誤認する」性質があるとしか思えない。

 またイジメっ子の件もそうであるが当然「強い人間は優しい」とは限らず、むしろ人間は強くなるほど優しさから遠くなる傾向も指摘されている。例えば社会心理学者ポール・ピフによれば、1般の人々が持っている貧困層のイメージを調査すると「貧困層はルールを破りがちな傾向にある」とされるが、実際にロサンゼルスで「歩行者が横断歩道を渡ろうとする際に車を止めてくれるのは金持ちか貧乏人か?」を調べた結果、高級車の方が貧乏自動車よりも停止しない傾向があったという。

 また金持ちと貧乏人 研究室に呼んで、全員に10ドル渡して「この10ドルは取っておいてもいいし もし望むなら一部を全く知らない誰かにあげてもいい」と言ったところ、年収が2万5千ドルの人や1万5千ドル以下の人間が見ず知らずの人に与えるお金は年収15万ドルや20万ドルの人間より44%多いという結果が出た。

 このような数々の研究を踏まえてピフは「金持ちになると慈悲や道徳心が減る」と結論している。慈悲や道徳心は「優しさ」と近い概念であるのは言うまでもない。
https://www.ted.com/talks/paul_piff_does_money_make_you_mean

 また人間にはハロー効果やアンカリング効果と言って「何かに秀でてる人間はその他も秀でてるはずだ」と思い込んでしまう性質がある。つまり「優しい人が好き」は、社会的にそうあるべきだという規範と、「自分が好きになるような人間は社会的にも正しい」というハロー効果と、「強さを優しさと誤認してしまう」というストックホルム症候群の合わせ技だ。

 そもそも論で言えば、それが弱さからくる思い遣りの発露であれ他者を思い遣る営為は紛れもなく優しさである。それを「優しさではない」と断ずるのは「相手の足元を見て驕ってる」営為に過ぎない。要はこの手の問題は非モテ男性と女性との間に存在する、性的需要の差による性愛の圧倒的な権力差…選ぶ者と選ばれる者の差が本質である。またこれは性愛や女性に限った話ではなく、いつの世も権力者…例えば17世紀の王侯貴族、19世紀の資本家…は権力が集中するほどに劣位の人間に対して「貴方の奉仕は美徳ではなく利己である」という論理を打ち出し、奉仕に対して感謝を捧げない理由を後付け始める。弱者の道徳的美徳すらも剥奪しようとするのだ。

 最後により直接的な証拠として「男性の性格は身体的魅力が1定のラインを満たしてる場合のみ評価対象になる」という研究をあげる。進化心理学者Fugèreは、女性とその母親に身体的魅力が異なる3人の白人男性の3枚のカラー写真と、男性パートナーで望ましいと女性が1般的に報告する3つのプロファイルのうちの1つを提示して、男性の性格をどのように評価するか?を調査した。結果、女性とその母親の評価は案の定ターゲット男性の身体的魅力に強く影響されている事が示唆され、最も望ましいプロファイルを持つ男性はある程度身体的に魅力的であった場合のみ好意的に評価され、身体的に魅力的でない男性は最も望ましいプロファイルを持っていてもより望ましいパートナーと評価される事はなかったという。雑に言えば「男性の性格はセックスアプローチにおいては容姿の1定ラインを超えない限り評価されず、また容姿が優れな男性は実際の性格によらず好ましくないと評価される」ということだ。繰り返して言うが、「優しさ」それ自体は美徳であるものの、それはセクシーな記号ではなく女性へのセックスアプローチとしては機能しない。
https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs40806-017-0092-x

 性愛においては男性の弱さは罪だ。しかしながら、弱いないし非モテであるということは決して人格が劣っている事を意味しない。繰り返し言うが、良い悪いは別にして人間の欲望と社会的正しさ・望ましさは必ずしも合致するとは限らないのだ。

 また本記事は女性を叩きたいのではなく、「貴方のそれは優しさではなく弱さ」として道徳的美徳すら奪われようとしている事への反発が目的なので、本筋から離れるが少しだけ付け足すと女性が「優しい人が好き」と言うのは、それがコミットした男性から得られなかったものだからである。つまり「好きな強い男性に優しくして貰いたかった」という嘆きであり、本心からそれを(自分が好きになるような男性に)求めていることは事実なのだろう。また女性の全てが17世紀の王侯貴族や19世紀の資本家のような振舞いや論理を持つわけでもないだろう。

 優しさはセクシーな記号ではなく、モテる/モテないとは無関係である。おっぱいの大きい女性が男性にモテることをもって「社会的に正しい人格をしてる」とはならないように、男性もまた女性にモテることをもって「社会的に正しい人格をしてる」事には決してならないのである。

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