弱者同士の互助の場が必ず崩壊する理由

結論から言えば「他者と何らかの方法で繋がりが持てる人間は現代社会において互助を要するほど困窮する事はなく、従って現代社会においては他者と繋がれない人間が弱者となる」という身も蓋もないものになる。良い悪いは別にして「他者に価値を提供したり、他者を思い遣り分かち合う事が出来る人間」は、当然ながら周囲と健全な関係を築ける・既に築けているので弱者同士の互助を求めるインセンティブがないのだ。

弱者同士の互助の場は往々にして高潔な精神やアガペーを持った人間が立ち上げ、しばらくは主催や志を同じくする人間の「無償の愛」で上手く回る。しかしながら、それが上手く回り始めると「私も救われるかも!」と期待を抱く弱者が集まり始める。弱者は弱者なので自分が何か差し出す事はない/出来ないがコミュニティに迷惑はかけたりしてしまう。そうすると当然ながらコミュニティは、その迷惑をかける弱者にリソースを割かれ続け…そして愛は減ってしまう

「生き辛い人間は誰でもコミット出来る場」という理想はあれど、弱者が集うコミュニティというのは非弱者ないし弱者内の相対的強者にとっては「愛を与えられず愛を要求され続ける」不快な場である事を意味する。良い悪いは別にして、誰かに迷惑をかけてしまう弱者を弱者コミュニティが包摂しようとすると、弱者コミュニティ故に乏しいリソースが1気に底をつく。弱者同士の互助には「弱者故に弱者を包摂出来ない」というジレンマが存在するのだ。

・男女の互助が崩壊する理由

上記で私は弱者の定義を「他者に価値を提供したり、他者を思い遣り分かち合う事が出来ない人間」としたが、女性は子宮という生得的性的価値を有しているので、異性に対しては価値を提供することが出来る。その為、良い悪い救済か搾取かは別にして、弱者女性は性を切り売りせざるを得なかったり、「孤立してる子宮」としてプレデターに狙われやすい。ザックリ言えば弱者女性は属性として「性被害者/嫌悪者/奔放者」が付きやすいのだ。

1方で男性は他者に何の価値も提供出来ないので、他者と繋がれず必然的にコミュニティから疎外され只でさえ難を抱えがちなソーシャルスキルやコミュニケーション能力が更に発達しにくくなってしまう。また弱者女性も生得的性的価値で異性と繋がれしまうが故に、人間関係をそれに頼り切って「コミュ力やソーシャルスキルを磨かずに関係がヤバクなる度に男性の間を転々とする」ケースも少なくない。

その男女が弱者同士の互助の場に集う事は、つまり「性嫌悪者と非モテのマッチング」を意味してしまう。勿論、相性は最悪だ。

またこれは男性側が無実である事や、女性側の被害を矮小させる事を意味しないが、傾向として「弱者男性は強者男性より女性からセクハラ認知されやすい」側面があり、また研究も山ほどある。例えば2009年にニュージャージー州において女子大学生128人が、架空の男性プロフィールを説明されオンラインデート上でメッセージのやり取りをしたところ、「オンラインハラスメント」に対する女性の耐性の最も強力な予測因子は、架空男性の魅力と社会的地位であったと分析された。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19030980

これが何を意味するか?というと、つまり弱者男女混合互助の場ではセクハラ認知を受けやすい属性を有する男性と、性嫌悪傾向を有する或いは性的被害に敏感な女性が接触するということだ。加えて、男女どちらもそのような軋轢を解決出来るようなコミュ力やソーシャルスキルに乏しい…。

それ故に男女混合互助の場は、必然的に女性側の性的被害の訴えにより崩壊する。(どちらが悪いか?というのは別の話)

・弱者女性は場にコミットしない問題

それでは同性同士の互助は上手く行くか?というと、それも難しい。

まず弱者女性同士の互助の問題として「生得的性的価値により異性と繋がれてしまうので、ある種の不快な場である互助の場にコミットするインセンティブが生じ辛い」というのがある。雑に言えば、性的価値により男性からの関係ないしケアは得られてしまうので、不快な場で踏ん張るよりも性的価値を利用した「人間関係ガチャ」を回す方が期待値が高くなってしまうのだ。

前述した通り、互助の場は「愛を得られる」とは限らず、時には「愛を要求されるばかりで与えられない」という事や「愛を要求しても与えられない」事もありうる。良い悪いは別にして、他にコミット出来る/出来そうな関係性がある場合、そのような場を身を切って支えたり、損な役回りを引き受けたり、不快な弱者に耐え続ける選択は出てきにくい。そして何より女性の武器は女性には通用しない

弱者女性に限らず、女性同士の関係性は男性同士の関係性に比べて軋轢が生じやすい傾向にあるが、その理由にはこうした「合理性」もあるのではないか?と思っている。

・弱者男性は場にコミットし過ぎてしまう問題

それでは他に関係性がないような弱者男性同士の互助は上手く行くか?というと、それも難しい。

確かに男性は他に関係性がないが故に、多少不快な事があっても場に留まりやすい。この特性により男性は場を身を切って支えたり、損な役回りを引き受けたり、不快な弱者に耐え続ける傾向があるのだが、その特性は常にプラスとして機能するとは限らない。これらの特性は裏を返せば「自分が不快や軋轢を発生させても折れず留まり続ける」といった表現型としても出る可能性があるのだ。(またこれがコミュニティで問題のある弱者男性が目立ちやすい理由でもある)

良い悪いは別にして、弱者男性はそこしか居場所がないが故に全力を注ぐ。しかし、それは同時に「他者と繋がれない者ほど活発にコミットする」事を意味する。もっとハッキリ言えば「迷惑や問題を起こしやすい弱者男性ほど場にコミットしやすい=場のリソースを食いまくってしまう」のだ。

これが最も可視化されてるのが、5chの長文コピペ連投現象だろう。そこしか居場所がない者はどんなに窘められても叩かれても改めず折れず、居場所を破壊しながらコミットし続けてしまう危険性を秘めているのだ。

・弱者同士の互助が上手くいくケース

それでは弱者同士の互助は不可能なのか?というと、私は必ずしもそうとは思わない。何故なら、弱者同士の互助が上手く回るのはどうようなコミュニティの形か?については、既に人類の歴史の中で答えが出ているからだ。

それは「宗教」と「闘争」の2つである。

宗教は文字通りの信仰心で「良い事をすれば長期的(死後含む)には超自然的存在が必ず応報してくれる」という合理性を信者間で共用しており、謂わば「思い遣り分かち合う事」という行動規範がインストールされている。

闘争に関しては「共通の敵」及び「共通の目標」がいる事で結束が強まる他、「弱者の加害性が内には向かいにくい」という側面がある。良い悪いは別にして、弱者同士の攻撃や排他がコミュニティ内には生じにくく、また「敵を倒す事で愛が得られる」のでリソースの要求は外へと向かう。


弱者同士の互助の場は、社会的なルールや規範に馴染めないが故に「自由」を標榜しやすいが、自由な場においては自由だからこそ「場の離脱」や「他害性のある言動」を制限出来ず、弱者にとっては厳しい場になってしまう。その為、弱者の互助の場に必要なのは自由とは正反対の「強い規範」「明確な目標」が求められるケースが少なくない。例えば断酒会なんかは「酒を飲まず正直に苦しみを吐露し他者のそれを否定しない」という強い規範と「断酒する」という明確な目標があるが故に、比較的上手く回っている弱者的な人間の互助の場だと言えるだろう。

弱者同士の互助は確かに必ず崩壊へと向かう構造的な問題を抱えているが、それでも決して上手くいかないわけではない…と結論して記事を終わる事とする。

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