映画「バービー」が本当にフェミニズム映画なのか?

 結論から言えば、映画バービーは「女性版楽園追放」の1言に尽きるだろう。本記事は映画のネタバレ全開で行くが、バービーの映画のプロットは端的に言えば「エデンの園であるバービーランドに疑問を持った定番バービー(=イブ)が、ヘンテコバービー(=リリス)に唆されて人間世界に行って楽園の真実を知り(=知恵の実を食べて)、創造主(=ルース・ハンドラー)により人間(=性器を持ち死ぬ存在)としてリアルワールドで生きる決意をする」という旧約聖書のアドムの物語そのものだ。

 そして騒がれてるフェミニズム思想についてだが、この映画がフェミニズムを善として描いてるのは疑いようがない。そのうえでややこしい事に「フェミニズムを基本的に善としつつもフェミニズムに批判的な揶揄も取り入れてる」箇所と「恐らく製作者の意図しない形でフェミニズムに批判的になってしまってる」箇所が存在するのだ。例えば日本語圏のインターネットで騒がれた冒頭映像にしてもそうだ。

 原初の荒野で赤ちゃん人形でおままごとをしていた女児がバービー人形を見るや雄たけびをあげ、さっきまで我が子として可愛がっていた赤ちゃん人形を放り投げたり頭を砕く…文字にしても映像にしても非常にショッキングなこれは「2001年宇宙の旅」のパロディである事を前提として、素直に受け取れば映画で解説されるように「バービー人形の出現は、それまで赤ちゃん人形しかなかった女子向け人形市場に強烈な衝撃を与えた」というCMに見えるし、フェミニズム的な見方をすれば「女性は子供の頃からママというジェンダーロールを押し付けられていたがバービー人形は女性に"自己実現"という概念を提示し解放した」とも見えるし(実際バービー自身が「私は自己実現とフェミニズムの象徴だ」と認知してる)、反フェミニズム的に見れば「フェミニズムや女権力が拡大すると女性は子供を虐待するようになる」という地獄に見えてしまう。


(ママの不倫に悩む子供に対し「女を封印せよという権利は息子にもない」と説教する上野千鶴子先生。良い悪いは別に女としての幸せ追求とママとしての規範はぶつかり合うので両立は不可能である)

 更に生物学的な見方をすれば「子殺しは雌の本能。自分の遺伝子の分身である子供より、自分の遺伝子そのものかつ分身=子供を作れる自分の本体の方が優先されるのは当然。だからこそ雄は雌の連れ子を殺すし、雌は連れ子を殺されて雄に発情する。人間においても当てはまるのは昨今のシングルマザーによる児童虐待及び殺害事件と彼女の恋人との関係を見れば自明である」とも見えるだろう。

 そんなバービー達が集まって暮らす国「バービーランド」は端的に言えば楽園だ。プラスチックのビビッドなカラーの素敵な家に住み、素敵なモーニングルーチンをこなす。バービーの国は女児のごっこ遊びの世界なので階段なんか使わずにそのまま下にフワッと降りれるし、車は不快な排気ガスを出さないし、水面の上だって歩ける…なにしろバービー世界の水はそういう表現がされたプラスチックなので。ここら辺の描写は正に「お人形の世界が現実の人間スケールになったらこんな感じ」という妄想が見事に再現されており、素直にテンションが上がった。正に夢の国である。更に言えば黒人女性が大統領を務め、社会の中心は女性で尚且つ宇宙飛行士や弁護士やノーベル賞など華々しい活躍をしており、肥満の方や障害者であってもそれに悩む事も又他者から特別視されるわけでもなく当たり前のように生活している…という絵に描いたような多様性社会も実現されてる。そして労働はあるがそれは自己実現のフレームであり「食い扶持を稼がなければならない」という逼迫した事情はない。なにしろバービー達には「死」がないのだから…。そんなバービーワールドにおいて男性…ケンは完全な脇役だ。家があるかどうかも分からず、ダンスパーティーでは引き立て役であり、ガールズナイト開催する場合は何処かへ追いやられる。ケンに与えられた職業が「ビーチ(ライフガード等ではない)」なのは、女児のごっこ遊びにおいてケンが「ビーチにいるバービーの友人」程度の設定しかないからだろう。バービー人形の主役はあくまでバービーであり、ケンはバービーの添え物に過ぎないという背景の反映だ。

 しかしそんな夢の国に住むバービーの1体…便宜上以降「定番バービー」と称する…に異変が起きる。死について考えたり、憂鬱な気分になったり、足が平らになったり、更には太ももにセルライトが出来る。どうやらリアルワールド(我々の暮らす世界)における定番バービーの持ち主に異変が起き、その異変がリンクしてしまったらしい。そこで定番バービーはセルライトを治すべくリアルワールドに向かい、自身の持ち主を探しにいく。そこで定番バービーの対になるケン…便宜上以降「定番ケン」と称する…は以前から定番バービーにアプローチしていたのに振り向かれない事もあり、これはもしかしたらチャンスかも!と定番バービーの車に潜り込んでなし崩し的に道連れになる。

 そこで2人が見たリアルワールドの光景はバービーランドとは真逆だった。社会は男が中心になる男社会(原語:Patriarchy)であり、女性は華々しい活躍などしておらず、またバービーランドの謳う女性の自己実現や多様性はリアルワールドに何の影響も与えておらず逆にフェミニストっぽい子供から「貴方はステレオタイプな完璧な女性像を私達に押し付けフェミニズムを50年間後退させた」と意味不明な否定をされてしまう。1応恐らく映画の意図としては「女性はスタイルのいい美女が活躍するコンテンツを目にすると"女性は能力ではなくルックスやプロポーションで評価されるのだ…"との諦観が強まる」的な研究を指してバービーも似たようなコンテンツだと批判しているのだろう。
The Problem with Female Superheroes - Scientific American
1方でケンは男社会を目の当たりにしてテンション爆上げになり、高給かつ華やかな職につこうとするが「え?資格とかいるんですか?男性なんですけど…」されてしまい失敗。そこで資格とか必要ないバービーワールドで野望を実現させようと決意する。

 そこで定番ケンは定番バービーより1足先にバービーランドに戻り、男社会を実現させ道場と酒場をミックスさせた自分の店を開き、車を乗り回したりゴルフを楽しみつつバービーをメイドやチアにさせ我が世の春とばかりにイキり散らす。バービーワールドがリアルワールドのようになってしまったのだ。ここでケンが歌う「I'm Just Ken」は完璧な冴えない男性の苦悩を代弁いてると言えるだろう。(以下、聞き取り抜粋。間違えてたらごめん)

I have feelings that I can't explain
説明出来ない気持ちがある
Drivin' me insane
気が狂いそうだ
All my life, been so polite
私は最高紳士だ
But I'll sleep alone tonight
しかし今夜も1人で寝る
'Cause I'm just Ken
だって私はただのケンだから
Anywhere else I'd be a ten
他の場所なら満点なのに
Is it my destiny to live and die a life of blonde fragility?
ヘタレ金髪として生きて死ぬのが私の運命なのか?
I'm just Ken
私はただのケンだ
Where I see love, she sees a friend
私が愛を見ても彼女は友達としてしか見ない

Ryan Gosling - I'm Just Ken (From Barbie The Album) [Official Audio] - YouTube

 そしてこれこそ映画製作者が意図せずして起きてしまったフェミニズム批判だろう。リアルワールドと全てが逆のはずのバービーランドで生きるケンの苦悩が、現実世界で生きる男性の苦悩とそっくりそのまま重なってしまうのだ何故ならバービーランドこそが我々の住む世界のパロディであり、リアルワールドこそが私の住む世界とは真逆の世界なのだから

 ケンのバービーランドにおける立ち位置…目的も意義もよく分からない仕事に追われ、女性に性的アプローチする為にちょっと格好をつけようとして失敗し、何か成し遂げようと必死になるも失敗し、ペニスの小さいヘタレとして何も得られないまま生涯を終えそうな男性は決して少なくない。ケンは製作者の意図せずして「現実の男性」のそれに極めて近い存在になってしまっているのだ。

 また男社会に変わったバービーランドでは女性は家事や男性へのサービスに従事し、重要な仕事を全て男性に奪われてしまうグロテスクな描写がされているが、これをグロテスクに感じてしまうのは現実世界がそれとは程遠いからに他ならない。現実世界では女性は重要な仕事を奪われる以前にそもそもつこうとせず、更にそもそも論を言えば働こうともせず、それでいながら家事は折半しろと男性に要求している。


(日本政府が半世紀以上女性の労働環境を整え続けてもフルタイムで働く女性は全く増えてない)

 そして現実世界では「え?資格とかいるんですか?男性なんですけど…」は通用しないが、「え?資格とかいるんですか?女性なんですけど…」はある程度通用する。日本政府は現在全力をあげて女性に下駄をはかせて指導的地位についた女性を増やそうとしている。これが上手く行かないのは女性がそもそも下駄を履きたがらないからだ。というより正確には「成果物は欲しいが成果物を得るのに払う労力は負担したくない」といったところだろう。

 こう書くと恐らく東京医科大の入試不正問題を持ち出して「男性は男性というだけで下駄を履かせられてるやん」と突っ込む方もいるだろうが、東京医科大学が入試不正やったのは「女性はハードな勤務を嫌がりゆるふわを志向するので緊急外来などを担当できる医師が少なくなり医療崩壊しそうだから」という理由だ。そしてそれ自体は事実である。要は男性が下駄を履かせられるのはハードな勤務に従事することを期待されてであり、謂わば自己犠牲/献身であり自己実現のフレームとは言えないだろう。ここら辺は曖昧なポエムで女性枠を作ってる東工大等と対照的だ。

 ここら辺の「女性は活躍したいとか輝きたいとか言ってるけど全て男性のご協力ありきだよなw」というのは製作者が意図したフェミニズムに対する批判であり、それはバービーランドが実は幹部には男性しかいないマテル社によって作られたディストピアである事に象徴されてる…とフェミニズムに対して理解の乏しい人間は思うだろう。フェミニズムに対して少し理解のある人間は「フェミニズムは女性は何も負担を負わずに男性の保護と献身の拡大を求める思想である」と。つまりバービーランドはその意味での我々の住む現実世界のパロディになってしまっている。

 20世紀初頭にアンチフェミニストでマルクス主義者のベルフォート・バックスが述べた「全ての女性の権利擁護者の中で男女平等への熱意により、女性の保護や優遇する制度の廃止を提案した人を私は知りません」という言葉は、それから100年以上経った令和の今日においても真実だ。

 フェミニズムには「構造力仮説」という性的役割は男性の文化的特権とより高い地位…要は家父長制に由来し、男性が集団として自分達の性的および経済的利益に有利な性的役割を構築してるとする仮説がある。バービーランドにおけるケンが起こした反乱による男社会は、この仮説をもとにしてるのは言うまでない。そして当然であるがこの仮説は現実に全く即してない。女性が高い所得や社会的地位を獲得しても、これらの性的役割が取り除かれるのではなく、むしろ強化されることを明確に示した関連研究は山ほどある。1例をあげると金持ちの女性は更に金持ちの男性を選好するので男性には「稼がなければ結婚出来ない」という圧がかかり、ひいては性役割は強化されることが判明してる。端的に言えば、女性は幾ら所得や社会的地位を得ても更に上位の男性を求めるだけで、下位の男性を養うことはないのだ。

 この傾向は当然にフェミニストにも当て嵌まる…というよりフェミニストほど傾向が強い事が知られている。例えば「The Adapted Mind: Evolutionary Psychology and the Generation of Culture」による15人のフェミニスト指導者を対象に、男性にどのような特徴を求めるかと尋ねられたとき、「非常に裕福」「聡明」「天才」等の高い地位を暗示する言葉を定期的に使用し、また多額のチップ、豪華なディナー、立派なスーツなどにも言及された。要するに彼女達は自分を盛り立て保護してくれる超強力な男性…アルファオスを求めているだけなのだ。つまりアルファオスが管理して保護するディストピア…バービーランドはフェミニストが目指す理想郷であり、現実世界もそうなりつつあることは言及するまでもない。

 しかし定番バービーはそんな理想郷を捨てリアルワールドで生きる事を決意する。これはフェミニズム的というより旧約聖書的な理由で定番バービーがリアルワールドで人間の生涯を幻視し、そして老婆が自身に誇りを持って生きてることを発見した=知恵の実を食べて性器と死を持たない無知な人形として楽園で生きられなくなった事が理由だろう。(ここでの描写は「ルッキズムやエイジズムに縛られない老婆の美しさを発見した」ともとれるが、老婆は普通にメイク及びヒールを履くなどのお洒落をしており、美しく装うことをやめてはいない。なのであれはバービーが表面的な事柄に捕らわれず自分を貫く美を発見したと私は解釈した)ここは定番バービーが人間として生きてく為にリアルワールドに行く際、それまでコメディ的に描かれていた描写ではなくやけに神々しいスピリチュアルな描写がされてることや、創造主であるルース・ハンドラーに見送られる事からも、楽園追放をモチーフにしてることは明らかだ。(多分ルース・ハンドラーは言葉はカインの印を意識してると思われる)

 人間に死があるのは何故か?それは異性と番い互いの遺伝子をブレンドさせ次世代を残すからに他ならない。それ故に死がないバービーには性器がない。不老不死の存在として楽園で永遠に生きるバービーに性器は不要なのだ。そして映画では歳を経る事にフォーカスしてめ次世代を残すことにはフォーカスしない。これによって映画には極めて残酷な現実が映される事になってしまっている。それは即ち「性愛とは甲斐性と妊孕性の交換に過ぎない」という剥き出しの男女の本質だ。

 バービーランドのバービーはケンを必要としていない。ケンの存在なんかなくても毎日をHAPPYに過ごせる事は映画でも散々描写されている。そしてケンもバービーを必要としていない。ケンが反乱を起こしたバービーランドではケンは実に楽しそうにケン同士の交流をしていた。バービーはせいぜい飲み物を運ぶぐらいの存在意義しかない。もっと言ってしまえばバービーはバービー達だけで、ケンはケン達だけで生きる方が幸せになれてしまうのだ

 そんなケンは無条件にバービーの愛を求めてるわけであるが、性器の無いバービーにケンが求める事はなんであるのか?映画でバービーはケンの反乱を鎮圧するため性器がないなりにケンにハニートラップを仕掛けるのだが、その方法が「フォトショップの使い方を教わる」「映画の蘊蓄を語らせる」というものだ。これらは何れも男性なら「あ〜」と苦笑いが浮んでしまう手法だが、それらはガンダムでキャッキャウフフするオタクを見れば分かる通り、実は女性抜きでも男性間で自足自給出来る程度のものだ。ケンが食い扶持や治安に困らないバービーランドにおいてバービー達に提供出来るものがないのと同様に、生殖が存在しないバービーランドにおいてバービーもケンに提供出来るものはない

 この「ケンは無条件にバービーの愛を求める」という前提はバービーランドはケンに反乱を起こされ男社会になったとしても、実質的な支配権はバービー側にある事の暗示にもなっている。なにしろケンはバービーを求めてる以上、結局バービーが本当に嫌がる事は出来ないし、最後の最後はバービーに譲らなければならないし、それこそバービー達が「なら出てくわ」するだけでケンは土下座外交するしかなくなるのだ。なにしろバービを我が物にした(曖昧な長年連れ添った彼女的な存在)ケンがやることは「4時間以上に渡ってバービーへの愛を弾き語りする」なのだから。これは単純に映画の破綻箇所とも現実世界のパロディ…結局男性が社会を支配してるように見えても実質的には…とも見えるが、まあ制作者の意図したことではないだろう。(歴史的にも女性は権力者の嫁として権力の中枢を担い動かしてきている。女性は端的に言えば歴史の影の支配者である)

 「ケンは無条件にバービーの愛を求める」ことを前提に、女性の気を惹こうと悪戦苦闘する男性の愚かな姿は典型的なコメディ映画における「モテない3枚目」の役割であり、もっと言えば「男性に言い寄られたうえで袖にしたい」という負の性欲ポルノであり、兵頭新児に言わせれば「男性の無惨な姿をあざ笑うのはフェミニズムの伝統芸」だろう。言うまでもなく、この前提を支えるのは女性の妊孕性…自分の子供を産んでくれるかも?という期待…だ。それが無くなった時、男性はどうなるのか?もしかして無かったら無かったで社会の存続性等に目を瞑ればハッピーに生きれるのではないか?むしろ無い方が幸せでは?そんな疑問の答えが全世界で爆増してるmgtow…なるべく女性に関わらないで生きていこうとする男性…であるのは言うまでもない。ケンが反乱を起こしたバービーランドは、そこから飲み物を運んだりビーチバレーを応援するバービー達を抜いたらmgtowの理想郷そのものだ。(そして劇中でも指摘されてる通り反乱が起きたバービーランドにおいてバービー達はいてもいなくても変わらない存在になっている)

 まとめればバービーは製作者の意図しないところでフェミニズム映画にもアンチフェミニズム映画にもインセル映画にもmgtow映画にも見えてしまう怪作だ。ただそういった思想抜きにしてもバービーランドの「プラスチックの人形世界を人間スケールにしたらこんな感じ」という画面は見事だし、登場人物のドタバタ騒ぎは素直に笑える。下ネタがわりと直球なのを除けば頭空っぽにしても楽しめることだろう。このような記事を書いた私も映画は普通に楽しめたし笑えた。バービーは原爆揶揄から始まり、様々な物議を醸しているが野次馬目的で見ても決して損はしないだろう。

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