弱者男性文学としてのテラフォーマーズ

「テラフォーマーズ」は週刊ヤングジャンプで連載中の貴家悠・橘賢一による漫画だ。

火星を温める為に苔とゴキブリを送ったら、目論見通り火星温暖化には成功したもののゴキブリは進化して人間大の2足歩行生物になっていた。そのゴキブリは人間がゴキブリに向けるような敵意と害意を持っており、火星に調査に来た人間達を虫を叩き潰すように機械的に殺していく。この設定と描写のインパクトがテラフォーマーズの面白さの根幹である事は疑いようがないが、それだけならこの漫画は単なる1発芸のネタ漫画で終わっていただろう。

本作の魅力は、そういった設定と描写に負けないだけの骨太の人間ドラマがあることだ。そのテーマこそ「弱者男性」であることを1部を中心に説明したい。というより、そもそも論として本作は明確に

ゴキブリ同士の戦い

である事が強調されているからだ。勿論主人公達は生物学的な意味では人間であり、決してゴキブリなどではないが、彼等は社会から「ゴキブリ同然の存在」と見倣されている。

まず第1部の主人公である「小町小吉」は殺人犯である。彼は15歳の頃、幼馴染の秋田奈々緒が義父から性的虐待されてる事を知り、彼女を救うべく義父を撲殺してしまう。出所後は当然金もなく(恐らく就職等に困難して)生存率30%のバグズ手術を受け、同じく食い詰めた人間達と調査隊てして火星に飛ばされる。

この筋書きを見て分かる通り、火星のゴキブリも地球の調査隊も「火星を住みやすくする為に送られた嫌われ者」と表現出来てしまうのだ。実際、調査隊は「死んでもいい存在」「社会に居場所がない存在」である事が繰り返し語られ、「金のない人間は人権もなくなる」というモノローグの際にはゴキブリが背景に描かれる。本作が主人公達を「人間社会のゴキブリ」として描いてる事は明らかだ。

何処にも居場所がなく、ただ存在するだけで嫌われ排除される…彼等はその意味でゴキブリと全く変わらない存在だ。彼等がどう思われてるか?について、調査隊の1人「ゴッド・リー」は秋田奈々緒の死をこう代弁する。「借金まみれでクソムシみたいな生活してた女が、手術で本当にクソムシになってクソムシみてぇに死んだ」

ゴキブリと人間を別けるモノ

ゴッド・リーはそのように自分達を総括したうえで「ヤツらの死体を持ち帰って…ムカつくU-NASA職員のロッカーにぶち込んでやる!」と啖呵を切って1人で出撃する。しかしこの行動は愚かだと言わざるを得ない。実際ゴッド・リーは(裏設定では火星ゴキブリを1匹は倒したらしい)あっけなく火星ゴキブリに殺される。それこそクソムシみてぇに死んでしまったのだ。この火星ゴキブリがゴッド・リーの引き千切られた首を持って主人公達の前に姿を現す絶望感は凄まじい。

この絶望感は火星ゴキブリの強さに依るものだけではない。この絶望感の背景には弱者の望み・矜持・プライド…そういったものが何の役にも立たず機械的に磨り潰されるという虚無がある。ゴッド・リーは自分達が地球ではゴキブリに過ぎない事を自覚し、そのうえでそういう風に自分達を見下すU-NASA職員…もっと言えば世界…を驚かせてやろう、自分を認めさせてやろう…そのような誇りを胸に抱き出撃した。それが何の意味も有さず(むしろ2部で敵に能力を奪われて裏目に出る)、またその意味を解さない相手(火星ゴキブリ)にムシを殺すようにあっさりと捻りつぶされる…そのような無情が絶望感を産んでいるのだ。

1方火星ゴキブリは誇り…というより自分の意志を持たない。それ故に完璧な統率がとれるし、躊躇なく捨て石になる事も出来る。こうした歯車として役割に徹せられることが火星ゴキブリの強みである事は本作で繰り返し語られる。1方で人間側は誇りや感情…そういった意志のせいで歯車になり切れず、愚かな行動をとったり内紛起こしたりして火星ゴキブリという共通の脅威を前にしても1丸となれず、文字通りの自滅をする存在として描かれる。彼等地球のゴキブリと火星ゴキブリとの違いは「歯車に徹せられるか否か?」なのだ。

人間の証明

そういった人間の弱さと愚かさを本作では徹底的に弱さと愚かさとして描く。結果だけ見れば、「俺達をクソムシと思ってる連中を見返したい」とするゴッド・リーはクソムシみてぇに死ぬし、「小町小吉の乱暴な姿は見たくない」と死にながら訴える秋田奈々緒の祈りは届かず小町小吉は修羅の道を行く。彼等の意志が奇跡を起こすことはない。(からこそ第2部は奇跡を求める合理と理念の化身がラスボスとなる)

しかし彼等が何も得られなかったか?思いが全て無に帰したか?と言えば、それは違う。彼等は目的も仲間も失い続けるが、それでも抗うのをやめない。自分達を機械的に押しつぶす運命に、それでもNOを突き付ける。本作1部では、そんな彼等を指して次のようなモノローグが語られた。

「たとえ虫けらのように利用されるだけの人生でも人には意志がある」

この帰りの宇宙船に侵入した火星ゴキブリを倒すシーンは決して主人公達のハッピーエンドや大逆転描写とは言えない。状右だけ書き出せば、当初の「火星ゴキブリの駆除」という目的を果たせず、15人いた仲間を12人(後述のティン入れて13人)も殺され、ボロボロになりながら逃げ帰る…という酷いバッドエンド描写に他ならないからだ。

火星ゴキブリと戦う為に薬を服用し過ぎた結果、人間に戻れず昆虫の身体となって死を待つばかりとなったティンは自身の愚かさをこう自嘲する。「俺は実は火星に行く目的も帰った後どうするとかも特にない。なのにムチャしてしまった。何もない俺なのに生きようとする意志を持つお前らの事が好きになっちまった。こんな虫だか人だか分からない奴に気持ち悪いだろ?」と。その最早身体が完全にムシになってしまったティンを抱いて小町小吉は「お前は人間で俺の友達だ」と告げる。その瞬間、ティンは救われた。確かに彼等は何も成し遂げる事は出来なかったが、それでも自分を押し潰す理不尽に愚かさと弱さ…意志を持つ人間として抗う事が出来たのだ。

絶望の歯車

本作で描かれるのは理不尽な奇跡なき世界で、それでも何かを求めて戦い続ける人間達の姿だ。彼等はこの世界が理不尽なこと、自分達が顧みられない存在であること、そして奇跡が起きない事を知っている。更にそんな彼等がかろうじて見つけた生きる目的や意味さえも本作は容赦なく奪い取っていく。

第2部では幼馴染の手術費を稼ぐべく闇試合で危険な試合をこなしてファイトマネーを稼ぐ新主人公「膝丸燈」が、治療が間に合わず幼馴染が死んだ事を聞かされてスタートだ。本作は本当にここら辺のスピード感が容赦ない。そんな膝丸燈を小町小吉はこう言って火星探索に勧誘する。「我々は今強く必要としている。君の戦力と君の持つ熱いむき出しの涙(いかり)を!

絶望の中で、それでも彼等を突き動かすのは怒りだ。奇跡の不在、自分の無力と無価値さ、それらを理解させられ生きる意味を奪われても尚彼等は足を止めない。この理不尽な世界にNOを突き付けずにはいられないのだ。

こうした絶望が支配する世界で如何に生きるか?は普遍的なテーマであり、時代と共に異なるモチーフで語れてきた。例えばプロレタリア文学である蟹工船と本作は「何も持たず歯車として命さえも軽く扱われる人間達がそれでも理不尽に立ち向かう」という骨子を同じくしている。それを令和日本では何と呼ぶのか?となったら「弱者男性文学」と呼ぶのが適切ではないだろうか?

余談

・女災
弱者男性文学な本作にはちょくちょく女災描写が挟まれてる。第1部でも不細工な蛭間一郎は不細工な故に強姦冤罪をかけられ大学合格を取り消されてしまう。

因みに性犯罪冤罪は統計的に黒人等の社会的地位の低い男性ほど被害者になりやすい事が知られており、不細工で女性と接触がないからこそターゲットになるという描写は現実でもあるあるだ。

また第2部のアドルフ・ラインハルトは「妻に人間にして貰った」とのろけつつも、その妻は浮気&托卵している事が語られる。ラインハルトもその事は知っているのだが「今の幸せを崩したくない」と感情を殺し、実際は「愛妻家」という役割をこなす歯車になってしまっている。そして彼は完璧な歯車として行動する火星ゴキブリ=自分の鏡映しのような存在に追い詰められ、怒りによって命をかける覚悟をして解放される。命さえ失っても良いとする心境に至ることで「失う恐怖から自分の気持ちに嘘をつく」という呪いから解放され、「もう嘘をつかないで生きよう」と意志を持つ人間になれたのだ。

この2人に限らずテラフォーマーズには「性的権力によって意志を捨てさせられ歯車になる事を強いられる」男性がちょくちょく描かれる。



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