政治的に正しい人間の「弱者男性論」が必ず虚無になる理由

私は4月初旬に

“今後弱者男性論がどうなるか考えると、恐らく「性愛関係からの疎外は問題だが、その為に女性の自由意志・自由選択・不快を蔑ろにしてはならない。よって性愛関係から疎外された男性は愛欲を捨てて悟りを開き解脱を目指すべきである。それに男女関係なく疎外された人間を叩くのはやめよう」みたいな毒にも薬にもならない現状追認的な話が延々と繰り返し賞賛され、何の問題も解決しないまま議論は堂々巡りを続ける”

と予言したが1か月も経たない内に上記のような虚無記事が日々インターネットにアップロードされ続けている。また記事の内容・構成もほぼ例外なく

インターネット等で「弱者男性問題」を騒いでる層がいる。

彼等は被害者意識と女性蔑視で認知が歪んでいるが1理はある。

彼等に何らかの救済は必要である。

しかしながら不遇を嘆いたり誰かを呪っても幸福にはなれない。

悟りを開け

というものだ。毒にも薬にもならない…実質何も言ってないに等しい虚無&虚無としか言いようがない。しかしながら、実際のところ政治的に正しい人間がこのテンプレート以外使えないのには事情がある。何故ならば、弱者男性論の本丸は「女性の加害性及びそれを可能にする性的魅力の権力性に対する異議申し立て」であるからだ。良い悪いは別にして、今の政治的正しさにおいて女性を加害者ないし権力者として扱い、その責任を問うことが出来るわけもない。(逆説的に、そのような批判が許されない…炎上したり差別主義者とされたり最悪職を失ったりする…こと自体が権力の証であるという見方も出来なくはないだろう)

 その為、政治的に正しい人間の言説は「弱者男性は女をあてがえ…女性の人権を制限して配給すべき…と言っている」のように当事者達の言説を拡大解釈&悪魔化して「こんな酷い事を言う人間がいますよ。彼らはこれこれこんな理由で認知が歪んでます」と否定することから始まらざるを得ないのだ。とりあえず筆者の観測範囲では「女をあてがえ」を上記の意味合いで使っている当事者は皆無であり、「皆婚社会の方がいい」「未婚男性が結婚するには今の環境では厳しい」「自由恋愛は未婚を促進するのでは?」ぐらいの意味合いで使われてる。しかしながら、このような主張を正確に拾うとそれは「女性は性愛においては"選ぶ側"であり権力者である」という領域に踏み込むことを意味しているので、当然に政治的に正しい人間に出来るわけがない。繰り返すが、それが事実であるか否かは別として政治的に正しい人間達が行う人民裁判において「弱者男性論に理解を示す=ミソジニスト・差別主義者」は確定事項なのである。

 雑にまとめれば弱者男性論は今の「社会構造及び政治的正しさ」自体に対する異議申し立てであり、どう理屈をこねくり回しても政治的正しさと両立することは不可能なのだ。そして当然ながら男女の利害はハッキリ対立しているので、話し合いも相互理解も無理である。政治的正しさを守る以上は、構造問題等には触れず解決すべき問題を全て個人の内面の問題に集約し「悟りを開け」と締めざるを得ないのだ。また「そんなものにコミットしても幸福にはならない」という言葉は、逆説的に弱者男性論が「反動的運動」であることを証明している。これは弱者男性論だけでなく、世の流れや正しさに逆らう営為全般が「何かを変える為には必要であるが、それにコミットしても個人の幸福に繋がりにくい」性質を有さざるを無いのだ。

 また実際に「女性の加害性及びそれを可能にする性的魅力の権力性に対する異議申し立て」が問題と認められ、制限された社会というのは既に存在する。というよりギリシャ問題のパンドラや傾国の美女という言葉で、古来から人間社会は正しいか否か?は別として、性的魅力の危険性に対して警鐘を鳴らしてきた。現代においても世界3大宗教であるイスラム教は女性が肌を見せる事を禁じている。

 以上を踏まえて、これから弱者男性論がどうなっていくか?についてどうなっていくか?の予言をする。上記の通り、弱者男性論はとっくに闘争のフェーズに入っているが、インターネット上の主流言論空間から闘争が生じることはないだろう。何故なら弱者男性論自体が何週も遅れた営為であり、もう行動しているものは、とっくに行動しているからだ。例えばナンパ師なんかは「女性の加害性・性愛市場における権力差」を認識したうえで、具体的にどのように女性とコミットしていくか?を追求してる。

 私見であるが、アンチフェミ・弱者男性論者は女性への期待値の多寡により大きく2つに別れている。すなわち「女性は真の男女平等ないしノブリスオブリージュを実現出来る」と考える者と、「いやそんなん無理やろ」と考える者だ。良い悪いは別にして両者は遠からず袂を分かつ。特に前者側に近い反表現規制界隈は、彼らのドグマの「表現の自由」自体がリベラルに乗っ取った志向であり、リベラル…個々の自由意思を尊重し、規制規範を排する…の論理においてはフェミニズムを認めざるを得ないので…今もそうなってる気がしないでもないが…やがてフェミニズムや「政治的に正しい表現の規定権」を巡る内紛に落ち着くだろう。後者も「相互理解や譲歩は無理であり闘争のフェーズに入ってる」と認識しつつも、現実的な適応を目指していくと思われる。恐らく今の言論空間で闘争が生じることはまずない。

 しかしながら社会の流れとしては「フリーライダー排除」が進むだろう。フェミニスト、マイノリティ…弱者である事を盾に他者への施しを拒否する者…への反発は滅茶苦茶広まっている。これは1切の研究や統計が必要ないレベルで自明だろう。そして…当たってほしくない予想であるが…オタクもフリーライダーとして排除される対象になるだろう。社会へのコミットを必要最小限?に抑え、自分の趣味嗜好に忠実に生きる…リベラリズムがオワコンした社会で、そんな生き方が認められるわけがない。

 あと実際に性的魅力の行使が制限された社会においては性的魅力に頼って生きてるメンヘラ女性は大変厳しい事になると思われる。というか性風俗産業における脱税を本格的に摘発するだけで冗談抜きで×者が多数出るのではないだろうか?またコロナの助成金を通じて可視化された事であるが、性風俗産業は脱税等のフリーライダーとして割と多くの国民から反感を買っている。また流石に日本では、そこまで行かないだろうがイスラム国が支配した地域における性風俗産業従事者がどのように扱われているか?というと…。

 まとめれば私は「弱者男性論の誕生は今の社会のバックラッシュを作っているというよりバックラッシュの結果である」と思っている。それらが政治的に正しい人間の間でどのように議論され、どのような結論が出ようとも何も変わることはない。恐らく、こんなことをグダグダ書いている内に生殖に優れたミームを持った群れに淘汰されてくだけなんだろうな…。


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