フェミニズムと精神障害
よくTwitterでは過激/支離滅裂な発言をしているフェミニストを捕まえて「彼女/彼に必要なのはカウンセリング」等と揶揄する発言が流れてくる。私としては、これには以下の2点の理由から反対したい。
まず第1に「個人に対して(最初から)異常というレッテルを貼って処理するのは、その苦しみを全て自責に還元させて事実上発言権を封殺しまう事になり、建設的な検証が不可能になる」という理由による(対象の病理化)。勿論、実際に精神医学的/客観的にも「異常」な場合はあるだろうが、その認定は極めて慎重に行われるべきだろう。更に言えば、そのように苦しんでる人間は既にカウンセリングや精神科に通院してる事も珍しくはない。
第2に「そもそもカウンセリングがフェミニズムを広めるツールになっている」面があるからだ。例えば「日本フェミニストカウンセリング学会」は「女性の視点と経験に基づいて心理学的援助を捉えなおし、女性による女性のためのフェミニストカウンセリングの確立をめざします」として、各地にカウンセラーの派遣や講習や資格付与等を行っている。このようなフェミニストとカウンセリングやセラピーを結び付ける団体は無数にあり、カウンセリングの良し悪しや効果のあるなしとは別にしてカウンセリングによってフェミニズムに目覚める人間も多いと思われる。(少し検索するだけでカウンセリングからフェミニズムに目覚めた当人達のブログないしSNSがヒットする)
このように実はフェミニズムと精神医学や心理学との関りは深く、昔からフェミニストは自身の精神を分析したり、フェミニズムに基づいて自他問わず精神疾患を治療しようとしたりしていた。ここでは、そのようなフェミニスト達と精神疾患の関係を追ったうえで私見を述べようと思う。(私見部分は色々ヤバイので有料にしますが、無料部分だけ読めば大体言いたい事は分かると思います。また売り上げは共同親権運動ネットワークへ寄付します)
・女性のノイローゼは性的トラウマが原因!?
1928年に発表された文化人類学者マーガレット・ミードによって発表された「サモアの思春期」は世界に衝撃を与えた。何故ならサモア(正確にはタウ島)の思春期女性は、当時のアメリカ社会で問題視されていた思春期独特の心理的葛藤や非行などが全く見られなかったからだ。サモアの少女達は性的に奔放であり、社会が要求する様々な制約から逃れてノイノーゼとは無縁に人生を謳歌していた。この事実は「女性特有の苦しみは男女の肉体差由来ではなく社会由来」であることを示唆しており、そこから「女性のノイローゼは社会が作り出している」という考えが生まれた。
1988年には、この考えを発展させて「女性が原因不明のノイローゼや鬱や無気力感に苦しんでいるなら幼少期に性的虐待を受けてる可能性が高い。というより女性の生き辛さの原因は大体性的虐待に由来するかもしれない」と主張する「生きる勇気と癒す力」という本が刊行された。またこのメソッドにお墨付きを与えたのがフェミニストかつハーバード大学医学部精神科臨床准教授であったジュディス・ハーマンである。彼女は1992年に「心的外傷と回復」という本を出版し「トラウマ」という言葉を有名にした。本の主張を雑に要約すると「女性の苦しみは幼少期の性的虐待が"抑圧された記憶"としてトラウマとなり、それによって今も苦しめられてる可能性が高い」というものだ。そして彼女はノイローゼや希死念慮に苦しめらてる女性達を救うには「抑圧された記憶」を回復させる事が必要だと主張した。その為に導入されたのが所謂「催眠療法」やグループ療法であるが、これによってアメリカ社会は大混乱に陥った。療法により記憶が回復した女性が親に対して「性的虐待を受けた」と訴えはじめたのだ。
こうした「抑圧された記憶」に対し、1部の専門家からは疑問の声が出始めたが、その声は抑圧された記憶理論の支持者から「性犯罪者を擁護してる」「被害者に疑問を投げかけるのはセカンドレイプだ」「性犯罪者予備軍だから自分に都合が悪いんじゃない?」などと抗議が行われた。1例をあげると、認知心理学者エリザベス・ロフタスは「ショッピングモールの迷子」という実験で被験者の4分の1に「貴方は5歳の時にショッピングモールで迷子になった」という実際には存在しない記憶を埋め込む事に成功した事を示し、人間の記憶の不確かさを指摘した。すると彼女は「売春婦」「×すぞ」「性犯罪者」「名誉男性(男性に媚を売ってる)」と誹謗中傷や脅迫の嵐に見舞われた。
しかしながら、裁判で徐々に被告側に有利な判決が下されはじめ、現在ではこの手の療法がおこなわれなくなり、1応の決着はついた形となった。
またそもそも理論の基になった「サモアの思春期」は別の学者の調査によって「記述に誤りがあったんじゃね?」という事が指摘されていたりする。例えばサモアの思春期の代表的な批判者として知られる人類学者デレク・フリーマンの主張を要約すると「マーガレット・ミードは予め"性的に奔放で精神が健全な少女"という先入観を持って調査した結果、言質の少女達の冗談(下ネタ)を真に受けてしまったのではないか?」という事になる。実際に1989年の米国人類学会誌「アメリカン・アンソロポロジスト」には当時マガーレット・ミードに質問された女性が「私は冗談を言っただけだけど、マーガレットは本当として受け入れたみたい」と証言している。つまり「女性特有の苦しみは男女の肉体差由来ではなく社会由来」というのは(実際にどうであるかは別としては)根拠のない理論だったのである。
そしてエリザベス・ロフタスの「ショッピングモールの迷子」によって明らかになった事として「実在しない記憶であれ、それを吹き込まれる内に人間はそれを補完するストーリーを自分で作り始める」というのがあった。これは被験者の子供に対して、親や兄弟が幾つかの思い出話をした後に「お前は小さい頃ショッピングモールで迷子になったよな?」と言い、最初は本人が否定しても「暑い日だったよな、だからアイスクリームを一緒に食べたじゃないか」「白いポロシャツのお爺さんがお前を家まで送ってくれたじゃないか」などとディティールを積み上げていくと、「そういえばそんな事があった。思い出したよ」となるだけではなく、「アイスクリームはチョコ味だった」「おじさんのシャツは黄色じゃなかった?」と出来事の細部を思い出したり、相手の間違いを指摘すらしてしまうというのだ。(成功率は4人に1人の割合であるが)
つまり人間は虚偽の出来事であれ、それを指摘され続ければ1定確立で指摘にあうように認知を変えたりストーリーを作り出して自己補完してしまう。件の性的虐待はこの性質により「貴方の苦しみは社会におけるジェンダー問題であり具体的には性的虐待に起因する」と言われた事で、本人もそのように信じてしまい、主観的には1切の虚偽なしに性的虐待された記憶を思い出してしまったということになる。
このような事件があったものの「女性のノイローゼは(男性)社会が作り出している」という思想自体は、今なおフェミニズムの中核をなしてる事は周知のとおりである。また「貴方の苦しみは××のせいである」と言われた結果、実際は異なる場合であっても、そのように本当に思ってしまうのは記憶の偽造によらず普遍的に起こりうる現象である。
・自他の区別がつかない
また「サモアの思春期」により1930年代は精神分析運動のなかで、女性の特性および心理に対して熱心な議論が交わされる事になった。この分野の開祖は言うまでもなくオーストリアの精神医学者ジグムント・フロイトであるが、フロイトは男性心理について多くを論じたものの女性心理はあまり論じず、また女性心理の特徴を「受動性」とした。こうしたフロイトの論に対して、「女性はペニスを中心に動いている(*penis envy)わけではない」と異を唱えたのがドイツの精神分析家カレン・ホーナイである。しかし、彼女はフェミニストの支持を得たものの学問的には「主観により過ぎている」「自他の区別がついてない」等と批判されてあまり肯定的に受け入れられる事はなく、またホーナイ自身もアメリカ移住に伴って女性心理の研究をやめ、アメリカ社会の論評やパーソナリティー形成論に移行していった。(こちらの方は学問的に受け入れられ、特にパーソナリティ形成論は心理学の古典となっている)
しかしながら、ホーナイの出現が契機となって心理学にフェミニズムを持ち込もうとするフェミニストは増加した。臨床の場にもフェミニズムを持ち込もうとする動きが起こり、例えば現在ハーバード大学研究員を務めているポーラ・カプランも当初は臨床心理学の博士課程に入り、性差の研究等の論文を執筆した。しかし彼女の論文は「自他の区別がついてない」として受け入れられず、カプランは臨床心理学でPh.Dをとる事が出来なかった。また彼女の言によれば同様の批判により臨床心理学等でPh.Dを取れなかった女性は多数存在したようである。
このフェミニストが度々指摘される「自他の区別がついてない」という言であるが、これは文字通りに自分とそれ以外の人間は別のものであるという認識であり、この区別がつかないと「主観の絶対化・感情の事実化」「自分の物差しでしか相手を測れないので結果として相手に自分のルールや感性を押し付けてしまう」「相手に理解されない事を理解出来ず傷付いたり怒りやすくなる」「相手と心理的距離が近い或いは境界が無い為に思考がぶつかり合う機会が多くなりヒステリックになる」等と言われている。そしてこうした傾向が現代のフェミニストに見られる事は1切のエビデンスや統計など不要なレベルで自明なように思う。例えばTwitterでフェミニストは、往々にして個人のミクロな被害体験や感情を社会全体でそうなっているかのように語る傾向があり、そこに所謂「アンチフェミ」が統計等を持ち出して「実際はそうでない」と指摘・揶揄するのが定番の流れになっている。そして、こうした流れは学問の世界においてもあったのだ。
こうした批判に晒され又受け入れらず、それ故に新しい学問体系を目指したのが近代以降のフェミニズムであるとも言える。その為、フェミニズムなる学問は成り立ちからして「批判を避けてフェミニストがフェミニズムが正しい事を確認する為に設立した」学問であり、Twitterでフェミニスト批判として指摘されがちな「まともな査読や検証がない」「根拠がなく個人の主観が全てである」「理論が正しい事を自明としてる」「異なる意見を受け付けない」というのは見当外れな批判であり、もともとがその為の運動なのである。例えば高名なフェミニスト心理学者であるベル・フックスはフェミニズムなる学問を「性差別及び性差別による抑圧を終わらせる運動」と言っており、また日本の高名なフェミニストである上野千鶴子も「自分に不利なエビデンスはもちろん隠す。それが悪いことだと思ったことはありません」と述べている。
それ故にフェミニズムを1般的な意味での学問と位置づけ、その観点から批判するのは全くの筋違いなのである。それにしてもフェミニストないしフェミニズム批判で言われがちな「根拠がなく個人の主観が全てである」「理論が正しい事を自明としてる」「異なる意見を受け付けない」等は全て「自他の区別がつかない」という同1の基盤から発生した表現型であるような気がしなくもない。
*フロイトの理論によれば、女性は幼少期(3~7歳ぐらい?)の段階で自分にはペニスがないことから自分は去勢されているのではないかという不安に襲われ、その不安に対する防衛としてペニスを持ちたいという羨望を抱くようになるという。これに対してホーナイはサモアの思春期において母系民族社会にはフロイトの提唱するようなコンプレックスが見られない事を根拠として反論した。
・フェミニストの言動から見える「教条主義」
2020年6月2日に徳島県の職員の男性が徳島市内の路上で女子高校生に声をかけ、「キモイ」などと言われたことをきっかけに口論に発展し、逃げようとした女子高校生の髪を引っ張るなど暴行を加えたうえ、制止しようとした50代男性の顔面を殴った疑いで逮捕された。このニュースに対してあるtwitterユーザーが「男が悪いのは当然として、だから「キモい」って言葉は軽々しく使うべきではないということです。使う本人は思う以上に相手にとっては侮辱的・攻撃的な言葉ですので。」と書いたところ、大いに炎上した。
主な反論は大別して「女子高生は被害者なのにキモいという言葉を使ったから悪いというのか」「男性の行動はキモいとしか言いようがないからキモいと言うのは当然」「何故に相手が悪いのに自己防衛を求められなければならないのか」の3つに別けられると思われる。そしてこの3つの意見はいずれも「正しい事をしてるのに何故に配慮や迎合を求められるのか?」という論理がベースになっている。正しい事をしているのだから被害にあう事も、その正しさを曲げる事もおかしいという理屈だ。これは所謂チャリパク議論と同じような構造である。鍵をかけずに自転車を駐輪したら泥棒されたという子供に対し「これからはちゃんと鍵をかけろ」と親が言ったら、「何故に泥棒の為に鍵をかけなければならないのか。鍵のかかってない自転車は盗んでいいという決まりはないし、泥棒は法律で禁止されているのだから自分は鍵をかける必要はない」と子供が返すやつである。このように「良い悪いではなくて、そうした方が得になる」営為に対して、自分の中の善悪の観点から「そのようになるのが間違っているのだから自分はそうしない」と頑なな態度を取るのは、典型的な我々の非モテ仕草である。「身嗜みは整えた方が良い」的なアドバイスに対して「そもそも人間を外見で判断するような女性はこちらからお断り」と主張してしまう例のアレだ。
このような教条主義的な姿勢は他の騒動にも見受けられる。例えば2019年5月14日、学校の先生が生徒に痴漢撃退方法として痴漢を安全ピンで刺す事を勧めている漫画が投稿され、これも大いに賛否の議論が繰り広げられた。この「否」の意見は雑に言えば「安全ピンで刺すのが正当防衛になるかは微妙だし、別人を刺したら傷害になるし、加害者を刺激する事はリスクである」というものだが、これに対して「賛」の意見は「痴漢は安全ピンを刺されて当然」「そもそも痴漢の方が悪い」というものであり、いずれも自分の中の善悪を基準に現実的な適応を否定する例のアレ仕草である。
こうした態度を「配慮されて当然と甘やかされた結果」と見る意見もあるが、実はこうした態度は甘やかされたり配慮が得られない人間にも多く見受けられるものである。というより、善悪を基準にして現実的な適応を拒否する人間はいじめられっ子になる確率が滅茶苦茶高く、皆様も心当たりがよくあるのではないだろうか?
以上、「被害者意識」「自他の区別」「教条主義」といった特徴は、典型的なある傾向を示している気がしてならない。勿論、私は何の資格もない素人であり、仮説という形であれ対象の病理化を安易に記すわけにはいかないので、ここから先は有料として閲覧に制限をかけようと思う。
・私見
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