誰も貴方をケアしない~男性同士のケアが成立しない本当の理由~

結論から言えば表題は「男性同士に限らず他人同士のケアは難しい。唯1の例外が男性から女性へのケア関係である」で終了だ。

私はこんなの自明の理だと思っているが、Twitterで『「男性同士のケア」が難しい理由』なる記事を読んでみて、そのあまりの××さ及び、それに疑問を持たない人間達の多さを観測して驚愕した。

記事の主張を雑に要約するとこんな感じになるだろう。


1.女性同士のケア関係は上手く行くのに男性同士のケア関係は上手くいかない

2.男性は(女性と比して)コミュニケーション能力に劣っている

3.女性は他人に目を向ける1方で男性は地位や金や物質ばかりに目を向ける

4.女性は友人の作り方や関係の維持の仕方を(男性に比して)身に着けている

5.女性に比して男性はコミュ障であり、またコミュ障であり続ける

といった論立てになっているが、これはそもそも論として「女性同士のケア関係は上手く行く」という前提からして間違っている。その為、とりあえず女性同士のケア関係について客観的・定量的に観測した研究を幾つか紹介しようと思う。

女性が労働に関して同性同士で協力出来るか?を調べた米国の研究によれば、女性は職場において男性よりも他の女性からより数多くの非難を受けていると報告している事が明らかになった。また女性の非難のレベルも男性より遥かに上であり、特にエージェント(キャリア志向)的な女性は同僚女性により仕事のパフォーマンスが落ちるだけに留まらず、幸福度の低下や仕事撤退(離職)など人生自体に影響を及ぼしそうなレベルの非難を経験する事も珍しくないようである。
https://doi.apa.org/doiLanding?doi=10.1037%2Fapl0000289

付随して女性の労働と同性同士の関係性について「女性は女性上司を好まない」という傾向が強い事も知られている。
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0927537116301129?via%3Dihub

また直接的に「弱い同性への態度」に焦点を当てた研究として2017年にカナダで行われた「地位の高い人間による地位の低い人間のケアに性差はあるか?」という調査がある。3つの研究全体で187人の男性と188人の女性の参加者が、能力の異なる(架空の)同性のパートナーと協力したゲームを行った。そしてゲームの後、研究参加者は自分とパートナーの間で報酬を分配させた。すると3つの研究全てにおいて、地位の高い男性は地位の高い女性よりも下位のパートナーに対して報酬を共有する傾向にある事が示唆された。
https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0185408

また記事では「女性は人間に関心を持ちよく話す」事をコミュ力や人間関係構築能力の根拠としてあげているが、女性同士の会話は人間関係構築に対して関与しておらず、また友情関係を築き難い事が示唆されている。

「女性は男性よりお喋りである」に関しては、よく言われる俗説であるが、事実であるかどうか定量的に観測する為に小型センサーを用意して、研究所外の自然な環境でグループレベルの人間の行動を観測したところ、女性は(男性に比して)同性に物理的に近接してる可能性が高く、特に小集団においては男性よりかなり会話をしている事が明らかになった。よって「女性は男性よりお喋りである」という俗説自体は正しい。
https://www.nature.com/articles/srep05604

しかしながら、その会話が本当に人間関係構築に関与しているのかについて疑念を示すような研究がある。ゴシップ(所謂特に目的のない世間話)は人間のグループの帰属意識や絆を深める営為とされている。それについて性差があるか?について調べたカナダの研究で奇妙な事が判明した。男性のゴシップと友情の質は正の相関にあるが、女性のゴシップと友情の質は特に相関が見られなかったのである。平たく言えば「男性はいつもお喋りしている相手とは大体友情関係にあるが、女性はいつもお喋りしている相手と友情関係にあるとは限らない(そもそも関係ない?)」ということだ。更に話すゴシップの性差について男性は達成や地位に関連するゴシップを好み、また友情の質にも関係していたが、女性は容姿のゴシップを好むが、それは友情の質には関係していないという分析結果が出た。つまり女性の会話の頻度・内容と友情はさほど関連してない可能性があるのだ。
https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs11199-012-0160-4

この研究結果は男性の私には直感的には理解出来なかったので、複数の女性の知人(N=5)に「女性って何度も親しく会話してる間柄からといっても友情があったり芽生えたりするとは限らないの?」という旨の質問をしたところ、「大体そんなもんだよ」という旨の回答が返ってきた。特に女子校出身の人間(N=1)は色々思うところがあったようである。

またケアの文脈においては、相手の語りを妨害・中断・否定しないのが重要となるが、「男性に比して女性は同性の会話で相手の語りの邪魔をしやすい」事が示唆されている。2014年米国でコミュニケーションパートナーの性別が言語に与える影響を調査した研究によれば、女性は男性と比してコミュニケーションにおいて中断と従属節を多く使われる…つまり邪魔をされる機会が多い事が観測された。これは「女性は話を中断されやすい」という俗説を裏付けるものだが、研究によれば「女性は男性に比して女性から会話でより多く邪魔される」ことも観測された。

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/0261927X14533197

以上を、踏まえるに上記のブログの論立ては


1.女性同士のケア関係は上手く行くのに男性同士のケア関係は上手くいかない→そもそも女性同士は上手く行きにくい

2.男性は(女性と比して)コミュニケーション能力に劣っている→女性間のコミュニケーションは男性間のコミュニケーションよりも軋轢が生じやすい

3.女性は他人に目を向ける1方で男性は地位や金や物質ばかりに目を向ける→傾向として正しい

4.女性は友人の作り方や関係の維持の仕方を(男性に比して)身に着けている→女性は会話の頻度や興味の方向で友情は測れない

5.女性に比して男性はコミュ障であり、またコミュ障であり続ける→客観的根拠なし

と3以外は全て破綻している。(というより女性を過剰に神聖視し過ぎでは?)

1方で上手くケア関係が構築されやすいのが「男性から女性へのケア関係」だろう。これは研究を貼るまでもなく「そんな私にも支えてくれるパートナーが…」の性差で皆様よくご存じのはずだ。(また同時に女性から男性に対するケア関係構築の困難さも自明だろう)

現代社会はとにかく他人とケア的な関係を構築するのは難しい。何故ならば、良いも悪いも「不快な人間とは関わる必要はない」社会になったからだ。それどころかハラスメントの定義拡大で明らかなように「不快な人間である事は罪である」とすら見なされる。そして「不快な人間と関わらない自由」は裏を返せば「不快な人間として切断されるリスク」でもあるので、ケアが必要な人間=不快な人間はドンドン関係性を断ち切られていく。誰も貴方をケアしない。

例外的に男性から女性へのケア的な関係が構築されやすいのは、これも研究を貼るまでもなく「生得的な性的価値の違い」によるものだ。それが救いなのか搾取なのかどちらが辛いのかみたいな問題は別にして、それは「現代社会においてケア関係を構築するには相応の価値を相手に差し出さなければならない」という事を意味する。コミュ力はそういった価値の1つに過ぎず、例えば金があればコミュニケーションがとれない寝たきりの老人もケアが受けられるし、権力があれば滅茶苦茶コミュ障でも周囲が勝手に察してケアをする。つまりケアが必要な男性=弱者男性は何も持たないが故に他者と繋がれない人間を指し、弱者女性は生得的性的価値しか持たぬが故にそれを使わなければならない人間を意味するのだ。

また男性の生き辛さは、当然に「男性であること」に由来するものなので、その吐露はどうしても女性への嫉妬的な表現になってしまう。そしてオープンな場におけるそれは「ミソジニーだ!」「有害だ!」「解脱しろ!」として非難を浴びやすい。良い悪い、どちらが正しいか?は別にして、現代社会の公な場において男性は事実上弱音の吐露が禁じられている

それを象徴するような出来事がメンヘラ.jpの顛末である。そのサイトは「メンヘラ」という言葉をキーワードに生き辛さを抱える人間がWEBサイトに記事を投稿するという形で苦しみを吐露し合える…謂わばオープンな場でケア関係を構築しようという試みだった。そして「誰もが生きづらさを語れるメディア」作りはそれなりに上手くいっていたようだ。しかし、ある男性が「メンヘラ男に救いはない」という嘆きを投稿したところ、

・男女の対立を煽るのはやめてほしい
・ミソジニーを煽るような記事を載せないでほしい
・女性の生きづらさを無視する投稿を載せるのはやめてほしい

という非難の声が相次ぎ、男性投稿が事実上封じられてしまう事態に発展してしまったそうである。

まとめればケアが必要な男性は何も価値を持たず生得的性的価値もないが故に個人的なケア関係が得にくく、オープンな場においてはそもそも苦しみの吐露を封じられてしまっているということだ。

しかしながら、そのような所謂「コミュ障」や「非モテ」のといった弱者男性同士が、男性ならではの生き辛さをケアし合うコミュニティ…ピアの場は既にある。それは恋愛工学等のナンパ界隈だ。

ナンパ界隈では他のコミュニティに比べ男性が弱音や鬱憤を吐く事が許されているし、それが馬鹿にされたり頭から否定されたり内省を強要される事も少ない。何故なら彼等を主導するようなインフルエンサー達も元非モテやコミュ障である事が多く、その苦悩に対して積極的に共感を示すからだ。

ケアが必要な人間の嘆きを受け止め、それに共感を示し、その上で解決策を提示する…こう書けば、彼等のやってる事はグループセラピーのそれに近い。そこは女性蔑視やその他倫理的な問題がないとは言えない。しかし、良い悪いは別にして弱者男性の語りは、そのような「(社会的に)正しくない場」でないと吐露するのが不可能なのである。正しくあろうとすれば、そもそも苦悩を吐露出来ないのだ。

彼等が本当に救われてるかどうかは議論の余地があるだろうが、とりあえず彼等が自身が所属出来るコミュニティとセックスを得られていることは事実である。

「正しさ」は良い悪いは別にして弱者を救えない。男性同士のケアが難しい理由は、コミュ力云々というより、生得的性的価値の差や構造上の問題に由来すると結論して記事を終わる事とする。

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