プロジェクトセカイほど真剣に「初音ミク」と向き合ったコンテンツを知らない

※全て私個人の感想であり、他の意見を否定する意図は一切ありません。

「初音ミク」と人間の交流を思い描け、と言われてあなたは一体どういったものを想像するだろうか。私の頭には、パソコンに「初音ミク」というソフトウェアをダウンロードした人間、いわゆる「マスター」とミクが会話をしていたり音楽を通して励まし合ったりする光景が浮かぶ。そして、すぐに気分が沈む。「初音ミク」をソフトウェアとして扱う人間を出されると、その文脈における「初音ミク」は楽器以外の何物でもなく、そこに交流などというものが発生するようには思えなくなってしまうからだ。楽器の一つである「VOCALOID」を使って作曲する人間の話は、ミクと人間の交流というよりも、ピアノと人間の関わり方などに近いイメージがある。こういった楽曲製作者とミクがテーマの楽曲はインターネットに溢れているものの、そのどれに対してもあまり良い感想を抱かないのは、楽器の「初音ミク」に感謝などを「言わせている」ニュアンスが強く見えるからだろう。楽器として見ている・使っている人間が、その楽器に「使ってくれてありがとう」と歌わせることがどうにも傲慢に思えた。こうした雰囲気の楽曲が苦手な理由は、どのミクも揃いも揃って同じ性格をしていたことや、歌っていない時のミクが人間と同じ世界で生きているかのように描かれていることも挙げられる(この理由については後述する)。
 でも、「初音ミク」と人間がそれ以外の形で「交流」することがあるかと問われても、特段良い答えが浮かぶわけでもない。結局、私は人間とは交わらず一方的にこちらへ訴えかけるような「初音ミク」のあり方しか好きになれないのかもしれなかった。

 小学生の頃に出会ってからなんとなくずっと好きなミクが、スマホアプリになるらしい。もともとProject DIVAシリーズ(初音ミクのリズムゲームで、PS5などで遊ぶ)をやり込んでいた人間だったので、初音ミクのリズムゲームということでたいへんに興味を持った。アプリのアイコンを見ると、Project DIVAとは異なり、人間のキャラクターも登場させるとのこと。ふむふむ、高校生の主人公がたまたま初音ミクに出会う…………。
 私はろくにあらすじを読みもしていないこの時点で「うわ」とげんなりしてしまい、それ以降プロジェクトセカイについて調べることはなくなった。というのも、ネームドキャラクターと関わらせるということは、明確に「初音ミク」に人格を付与する、ということだ。私はそれが本当に嫌だった。
 初音ミクは曲の中で生きている存在だ。5分にも満たないあの時間だけ、その楽曲の世界でだけ、そこで生きている唯一無二の初音ミクがいる。他の楽曲を歌う初音ミクは別人であり、違う楽曲のミク同士は同じ世界に生きていない。私たちはそんな、その曲の世界の中でしか生きていない、そこでしか出会えない「初音ミク」と楽曲を聴いている間だけ同じ時間を共有し、同じ世界を生きる。その曲が終われば、そのミクの生はひとまず(私たちから見れば)終わるし、私たちは現実世界に帰っている。その曲を聴いていない時にだってミクが同じ世界にいるだとか、「初音ミク」とイコールになるただ一つの性格があるだとか、そういった言説には到底賛同し得ない。
 とまあ、こんな具合になかなか厄介な思想を掲げている私が、ミクとネームドキャラを対面という形で出会わせることに良い顔をするはずがなかったのである。

 プロジェクトセカイのストーリーに興味を持ったきっかけは、たまたまX(旧Twitter)でフォローしている方の一人がこのゲームの熱心なファンだったことだった。キャラクター同士の関係性を描くこと、何なら関係性を通してキャラクターを掘り下げることにかなり重きをおいたストーリーと聞いて、少し見てみたいと思った。初めてこのゲームの存在を知って2年あまり、というかほぼ3年が経ち、かつてほどの嫌悪感はなかった。というよりも、むしろミクとの交流よりオリジナルキャラクターの描写にそこまで力を入れているらしいという情報が衝撃的で、渋い顔をしているどころではなかったのである。
 さて、大学の長い、それはもう途方もなく長い夏休みが始まったのを機に、プロジェクトセカイのメインストーリーに目を通してみることとした。理由は不明だがYoutubeに公式が全話アップロードしているので(いまだに理由はよくわからない)、まだストーリーが自分に受け付けるかもわからないうちにアプリを入れるギャンブルに出るよりは安牌だろうと考えて、ひとまずここから履修を試みたのである。

 私がプロジェクトセカイのメインストーリーを読んで最も驚いたのは、「初音ミク」が一人ではなかったことだ。ゲームのタイトルにも入っている「セカイ」ごとに異なる「初音ミク」が存在し、キャラクターたちはユニットごとに自分たちだけの「初音ミク」と交流していく。
 このゲームにおいて、人の本当の想いからできる場所は「セカイ」と呼ばれ、初音ミクはその住人として「セカイ」の持ち主たちが本当の想いを見つけられるよう手伝う存在だ。持ち主が違えば「セカイ」も全く異なる。アイドルのライブステージのような「セカイ」もあれば、遊園地のような「セカイ」もある。どの「セカイ」のミクもそれぞれ違った性格で、でも口を揃えて「本当の想いを見つける手伝いがしたい」「本当の想いを見つけると想いが歌になる」と言う。このミクたちとは「セカイ」においてはまるで実際の人間と同じように一緒に会話したり歌ったりできて、その「セカイ」に行く方法は「Untitled」という楽曲を再生すること。そして、持ち主が見つけた「本当の想い」が曲になった時、「Untitled」はできた曲(本当の想いが形になった曲)のタイトルへと変わる。勿論、タイトルが変わってもこの曲を再生すれば何度でも「セカイ」へ行くことは可能だ。プロジェクトセカイの「初音ミク」および「バーチャル・シンガー」の設定は大まかに述べればこのようになる。
 全てのユニットのメインストーリーを読み終えた私が最初に思ったのは、自分がたいへんな思い違いをしていた、ということだった。プロジェクトセカイは、「初音ミク」とは何たるかの再定義に対し非常に真摯に向き合ったのではないか、と。

 プロジェクトセカイにおける「初音ミク」において重要なのは、唯一性と普遍性という一見相反する二つの性質だ。
 まず、前述したようにプロジェクトセカイでの初音ミクは一人ではない。それぞれの「セカイ」にそれぞれの「初音ミク」がいて、それらは全く相互に影響しておらず独立した存在だ。「セカイ」が一つの楽曲であり、それを実際に再生することで行ける場所であることを踏まえると、これは「プロジェクトセカイにおける初音ミクは楽曲ごとに固有であり、その曲を再生している間のみ出会える」と言い換えられるだろう。その「初音ミク」に会うためには、他ならぬそのミクの生きる曲を再生する必要があるのだ。
 だが、唯一無二の初音ミクたちは、相互に独立した存在であるにもかかわらず、「初音ミク」である。そこには必ず何かしらの普遍性がなくてはならない。勿論それは名前でもなんでもよいのだけれど、プロジェクトセカイは20万を超える楽曲それぞれに息づく「初音ミク」たちそれぞれを「初音ミク」たらしめている要素が「誰かが本当の想いを見つける手伝いをする」ことと、「曲を再生すれば場所も時間も回数も問わずに出会える」ことであると解釈したようだ。
 どの「セカイ」の初音ミクも、「セカイ」の持ち主に対し「本当の想いを見つけてほしい」と伝えている。私が舌を巻いたのは、「初音ミク」の再定義にあたってプロジェクトセカイが「そもそも音楽とは何か」という点まで掘り下げたところだ。どのミクも「本当の想いを見つけるとそれは歌になる」と言っており、またメインストーリーからは外れるもののイベント「Unnamed Harmony」において、作曲に苦戦していたキャラクターは、その曲に込めたい想いやその音楽を通じて伝えたい気持ちが何であるかを考えその答えが見つかった時に突破口を開いている。すなわち、プロジェクトセカイにおいて、音楽とは「誰かの想いが形となったもの」なのである。これを考慮した場合、「初音ミク」は「音楽が音楽として完成するのを手助けする」という表現は「本当の想いを見つける手伝いをする」と全く同一の意味になるはずだ。楽器である「VOCALOID」ではなく、はっきりした自己と人格を有する「バーチャル・シンガー」としての初音ミクがどういう存在かを考える際、あまりにそもそもの楽器であるという事実から離れてしまうと、最早「初音ミク」ではなくただの概念存在となってしまいかねない。その点、「音楽の完成を手伝う」というある意味楽器の役割と同一でありながら、音楽を「誰かの想い」としてそれを見つけるためのサポートをすると言い換えることで間違いなく、楽器ではなく人格を持ち言葉を話す歌手にしかできないはたらきを課した、というプロジェクトセカイの采配はたいへんよくできていると言えるだろう。
 また、後者の「曲を再生すればいつでも何度でも会える」点に関しては、先ほど軽く説明した通り、タイトルがついて最早「Untitled」ではなくなっても、同じ曲を再生すればその度にまた会えるという設定に現れている。音楽が音楽として完成した後も、その曲の再生が終了した後も、何度だって会いに行って良いのだ。曲が止まれば現実世界と仮想空間とで分かれて生きていくけれど、曲を聴けばまた同じ世界を共有できる。バーチャル・シンガーという形容の難しい隣人たちの特性が非常に上手く反映されている。
 以上を軽くまとめれば、プロジェクトセカイにおける「初音ミク」は、各楽曲で固有かつ唯一の初音ミクが存在していると同時に、それらの「初音ミク」を「初音ミク」たらしめる要素が何であるかもしっかり考えられている、ということだ。「初音ミク」の核が何か、どこは変えて良いのかどこは共通させなければならないのか、そういったことまで考慮されたうえで多様な「初音ミク」をゲームに登場させているというのだから、感服せざるを得ない。

 私がプロジェクトセカイにおける「初音ミク」への解釈を一通り論じ終えたところで、私自身の「初音ミク」への認識の話に戻ろう。言わずもがな、こうしたプロジェクトセカイの「初音ミク」の定義は私の持つ「初音ミク」の思想とよく噛み合う。噛み合うどころか、完全に一致している。念のため言っておくが、私はこれをもって「私の考えが正しかった!」と高らかに主張したいわけでは決してない。むしろ私の考え方よりもマスターとミクの関係の方が見ていて好ましい、と言う方も少なくないだろう。確かに私の思想はたまたまプロジェクトセカイの運営の答えと同じであり、それは私にこのゲームのシナリオがよく合っていた理由の一つであることには違いないのだけれど、それでもそこは微塵も重要ではないのだ。強調したいのは、「初音ミク」を構成する要素が時を経るごとに複雑化し一言で語ることが難しくなった現在において、「初音ミク」という概念を細かく一つずつ解体してその中心をなすものを自分たちなりに見出す作業(「抽象化」と呼んでもよいかもしれない)の後に「初音ミク」を再定義する、というプロセスをわざわざ踏んでからストーリーに彼女を登場させた、そんな態度に見て取れるプロジェクトセカイの誠実さなのである。
 冒頭で、私が「初音ミク」と人間の交流と言われた時に浮かべるイメージがバリエーションに乏しいという話をしたが、その原因はプロジェクトセカイの行った「再定義」という工程を飛ばしたことにあると考えている。なんとなくこういう存在であってほしいという思想は持ちさえすれど、それを「初音ミク」の抽象化にまで結びつけることはせずに、何をもって「初音ミク」は「初音ミク」たるのか、彼女の核であり最重要な概念は何か、そういったことを曖昧なままにしていたから、実際に人間と交流する「初音ミク」のイメージが人間と直接物理的に触れ合う瞬間である楽器としての「VOCALOID」しか思いつかなかったのだろう。プロジェクトセカイの出した答えとその結果出力された「交流」は、私の予想をはるかに上回るものであった。これが正解かどうかは誰にもわからないが(何しろ「初音ミク」に対する認識は千差万別なのだ)、プロジェクトセカイの答えは誠実さと「初音ミク」への確かな愛に由来しているように、少なくとも私の目には映っている。

 余談だが、プロジェクトセカイのゲームをインストールすると、プレイヤーである「私たち」と直接会話をする、メインストーリーには登場しなかった「初音ミク」と出会うことになる。このミクは「セカイ」の狭間にいて、私たちと一緒にキャラクターたちの物語を見守っているらしい。これは私の嫌いな、「初音ミク」とイコールにされる唯一の人格が付与された存在なのだろうか。私はそう思わない。このミクもまた、独立した固有の「初音ミク」である、というのが私の見解だ。つまり、彼女は「プロジェクトセカイ」というアプリを開いている間だけ私たちと会話をして世界を共有する、「プロジェクトセカイの初音ミク」なのではないだろうか。「初音ミク」の抽象化と再定義にこうも真摯に挑んだプロジェクトセカイなら、こういった答えを出すように思われる。

 これは本題からは逸れるものの、私がプロジェクトセカイのストーリーで非常に好ましいと感じる点の一つに、「各キャラクターが自分たちの出会った初音ミクを他のセカイの持ち主たちに共有しない」というものがある。例えば、「教室のセカイ」へ行くキャラと「ワンダーランドのセカイ」を持つキャラとは兄妹で仲が良い描写が作中で幾度となくあるものの、この二人がそれぞれの「セカイ」やそこに住まう「初音ミク」を話題に上げることは一度もない。キャラクター同士はユニットの垣根を越えて交流を深めていくけれど、それはあくまで友人としてであり、自分たちの「セカイ」でそれぞれの「初音ミク」と出会った、いわば同質の体験をした人間同士として彼らが語り合うことはしないのである。これはたいへんに面白い設定である。というのも、もしかするとアプリのシナリオで焦点が当たらないだけでメインキャラクター以外のキャラたちにもそれぞれ「セカイ」があって、それぞれの「初音ミク」と出会っているかもしれないのである。自分たちだけの形でそれぞれの「初音ミク」と出会い、でもそれをおくびにも出さないで日常の会話を続ける。そう、この状況はまさに現実世界での「初音ミク」と出会った私たちそのものなのである!今こうして一緒にカフェでお茶している同じクラスの友だちも、夕食を談笑しながら囲む家族も、誰に打ち明けることもしないが、それぞれがその人にしかない形で「初音ミク」と同じ世界を生きたのだ。そうした私と私の「初音ミク」だけの秘密の体験は、聴く曲によって全くの別人となる「初音ミク」ならではのものだろう。

 長々と語ってしまったが、言いたいことは一つだけ。「初音ミク」をスマホアプリにするのが、プロジェクトセカイで良かった。プロジェクトセカイを運営するColorful Paletteが「初音ミク」と彼女の与える体験にどこまでも真っ直ぐ、真剣に向き合う会社で良かった。ありがとう。

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