タコピーの「原罪」とは何だったのか

 ついに今週金曜日の更新で最終話となる「タコピーの原罪」。完結を目前とする今、改めて考えてみたいことがある。
 タイトルにある『原罪』とは結局何を指すのだろう。
 2022年の雲母坂まりなを止められなかったことか? 2016年の彼女を殺してしまったことか? それとも久世しずかを殺せなかったことか?
 私は、これらのいずれもこの問いの答えとしては不適切であると見ている。
 私の見解を述べる前に、まずこの作品全体を通し一貫して描かれた主題について論じていこうと思う。

 この作品に登場する主な地球人である、雲母坂まりな、東直樹、そして久世しずか達三人のそれぞれを取り巻く環境は、残酷という表現が生ぬるいほど壮絶なものだ。彼らの解決しなければならない問題は山積みである上、その根は深い。生半可な対話などでは火に油を注ぎかねず、「おはなし」だけで状況を好転させることは正直難しい。「おはなし」は根本的解決へ至る可能性があるが、達成までにかかる時間は長く、即時的な効果は期待できないからだ。むしろ暴力などに頼った方が、よっぽど手軽に、かつ短期的ではあるもののその場である程度のプラスの収穫があるだろう。
 しかしタコピーは地球人ではない。ハッピー星人なのである。地球人の事情などわかるはずもなく、単純明快な打開策の見つけられない苦境の想像すらできず、問答無用で相手を黙らせる暴力だって知らなかった。だから地球に訪れてすぐのタコピーは、しきりに「おはなし」による仲直りを提案した。当然、読者はそれがただの机上の空論であることを理解していたが。

 「タコピーの原罪」では、ハッピー星からやってきたタコピーは、途中様々な葛藤や迷い、後悔を経るものの、一話からずっと「おはなし」の重要性について説いている。けれどもタコピーの主張とそれについての意識は本編を経て大きく変化していく。
 まりな殺害前のタコピーの口にする「おはなし」という語はひどく空虚であった。実を伴っていなかったと言っても良い。タコピーはただ故郷で与えられた任務を果たすべく、おそらくはマニュアル通りにまりなやしずかと関わった。読み返せば、当時のタコピーはどちらからも深い話を聞きだすことはしていない。背景の事情などを探ろうという姿勢が欠片も見られないのは、タコピーが、「おはなし」による仲直りを勧める一方で、内心、本当に問題を解決して彼女たちを「ハッピー」にできるのは自分の持っている「ハッピー道具」であると強く信じ、疑いすらしなかったからだろう。
 しずかの自死、まりなの殺害、東直樹による介在により、タコピーの認識は大きな転換を迎えた。自分が本当にしずかの「ハッピー」を望むのならば、何をするのが最善なのか、その答えを見つけたのである。
 確かに「ハッピー道具」は適切に用いることさえできれば人々に「ハッピー」を届けることができる。しかし、肝要なのは『適切に用いる』ことであり、何をどう使うことがその人の「ハッピー」に繋がるのかを知るためには、その人と真摯に向き合い、地道に「おはなし」をしていくことが不可欠なのだ。タコピーはハッピー星人であり、地球人ではないから、しずかが何に苦しんでいるのかわからなかったのか。なるほど、当初はそうだったかもしれない。しかし何度も何度も「おはなし」すれば、本気で知ろうとすれば、一歩ずつでも彼女との距離は埋まっていく。どれだけ途方もない道のりだとしても、着実に進んでいく。もはや異星人であることは言い訳でしかなく、彼女のことがわからないのは自身が本気でわかろうとしなかったことに原因があった。そのことにようやくタコピーは気づいたのだった。そうしてようやく、しずかが求めるものがなんだったのか、その本質に手が届いた。15話でタコピーがしずかに吐露した言葉からも、それが窺える。

ごめんね ごめんねしずかちゃん 何もしてあげられなくてごめんッピ
でもいっつも何かしようとしてごめんッピ しずかちゃんの気持ち
ぼく全然わかんなかったのに ぼく…
いっつもおはなしきかなくてごめんッピ
何もわかろうとしなくてごめんッピ
しずかちゃん 一人にしてごめんッピ

タコピーの原罪_第15話
タイザン5

 冒頭の問いに戻ろう。果たしてタコピーの犯した数多の罪の中で『原罪』に値するものは何だったのだろう。
 それは、2022年の雲母坂まりなとの「おはなし」を放棄したことだったのではないか。
 母を不可抗力で殺めてしまったまりなが亡骸に涙ながらに訴えた言葉は、

ママ 一人にしないで

タコピーの原罪_第13話
タイザン5

 だった。だからこそ、タコピーがまりなの元に戻ってきてくれたことに安堵した。この時も彼女は泣いているが、その涙は直前まで流していたものとは全く異なるものだった。色々限界だった彼女を少しでも「ハッピー」にしようと思うなら、たとえまりなの精神状態に気が付かなかったとしても彼女の話をしっかり聴いた上で次の行動を決定するべきだったのだ。
 しかしタコピーはまりなが泣いているという目の前の惨状とその背景に目を向けることもなく、彼女がうわごとのように零した現実逃避の言葉だけを聞き、そそくさと六年前へ行き、結果十六歳の雲母坂まりなを一人にしてしまった。
 今やタコピーは「おはなし」の真髄を知った。目の前の相手を理解しようという姿勢を持ち、「おはなし」を続けたことで、2022年には気付けなかったものを捉えられた(それは奇しくもしずかとまりなとで同じものであった)。第15話から引用した台詞はタコピーの変化を顕著に表したものであり、

しずかちゃん 一人にしてごめんッピ

タコピーの原罪_第15話
タイザン5

 との言葉をしずかに伝えられたことこそが、『原罪』に対する償いであるように思われた。

 この作品のテーマは「おはなし」であると私は考える。それは前述したようにタコピーの「おはなし」に対する認知の変化が描かれたからでもあるし、冒頭で紹介した三人のうち少なくとも東直樹は「おはなし」によって問題への簡単には見つかりそうになかった解を見いだしており、さらに残る二人も「おはなし」を通じて歩み寄りをみせるのではないかと予想されることも理由に挙げられる。
 東兄弟の一連の話は、この作品における最初の「おはなし」の成功ケースだ。この二人は、直樹が小学校に通い始めテストを受けるようになってから、以前のように会話をしなくなり、直樹が、母からの愛情に焦がれ、兄への劣等感を募らせるに伴い、たかがボタンの掛け違いを『たかが』で済ませられなくなった。
 この兄弟が「おはなし」でボタンを掛け直せたのは、二人の関係を拗らせた一因であるけれどあくまで第三者である母親は一切介入せず、当事者だけで腹の内を話し合えたことが大きいように思われる。直樹は潤也を慕っていたし、潤也も直樹を想っていた。そうした本音を、包み隠さず、誰に遠慮することもなく伝えることができたから、問題の根を見つけることができたのだと思う。
 そして、たった二人だけで全部全部話せたなら、まりなとしずかだってどのボタンを掛け違えてしまったのか、どうすれば掛け直せるのか、わかるのではないだろうか。一回の「おはなし」では到底叶わないかもしれないし、自分や自分の家族を傷つけた相手とじっくりと腰を据えて話すことは苦痛も伴うはずだ。それでも、「おはなし」をしていくしかないのだ。暴力は一時的な解決をもたらすかもしれないが、「おはなし」でしか、本当の解決に至ることはできないのだ。それを、リープする前の時間軸でしずかは痛いほど知ったはずなのである。
 タコピーはもういなくなってしまった。残されたのは「ハッピー道具」も持たない、ただの地球人のしずかとまりなだけだ。でも、「ハッピー道具」が使えなくとも、「おはなし」はできる。「おはなし」だけは、何もない地球人にも使える手段である。

 最終話がどのような結末を迎えるのかはまだわからない。ただ、それまでの話で描いてきた主題に対して明確な作者からの『答え』が描かれるのが最終話であると私は思う。しずかとまりなの二人がどのような「おはなし」をするのか、ほんの少しだけ期待しながら、タイザン5先生の答えを待ちたい。

 最後にかの有名なアルベルト・アインシュタインの言葉を引用して筆を置こう。なお、このnoteで書いた内容は全て一個人の解釈であり、それ以外の考察などを否定するものではないことを明言しておく。

Peace cannot be kept by force. It can only be achieved by understanding.
平和は力によっては保たれない。平和はただ理解し合うことによってのみ、達成できるのだ。

理論物理学者、アルバート・アインシュタインの平和への名言【偉人たちのポジティブ名言で学ぶ英語表現】
https://news.yahoo.co.jp/articles

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