「轟焦凍の文脈」における八百万百

はじめに

 『僕のヒーローアカデミア』という作品において、轟焦凍は少々特殊な位置づけにあるキャラクターである。というのも彼は、デクや爆豪、麗日や飯田と同程度、あるいはそれ以上に、多くの掘り下げがされているにもかかわらず、本編の根幹をなす二つの軸にメインとしては関与していないのである。OFAとAFOを巡る流れには勿論、デク個人の救済や異端としてヒーローが遠ざけられ”架空”にされてしまう現状を変えていくというテーマに関しても、飯田・爆豪・麗日ほどの役割は持っていない。No.319「友だち」の最後の見開きでデクと対峙しているのがこの3人であることからも、デク周辺の文脈における轟の重要性はそれほど高くないことが窺えるだろう。しかしその一方で、デクではなく轟が中心となっている、これとは全く別の軸が物語には存在している――轟家にまつわるものだ。
 轟の深い掘り下げが最初になされた体育祭からずっと、彼の複雑という言葉では到底収まりきらないほど複雑な家庭事情について、本編でも定期的に取り上げられていた。特に、オールマイトが引退しエンデヴァーがNo.1となった神野後には、そうした描写が増えたように見える。そして、荼毘がその正体を明かしたことにより、ゆっくり着実に進展していたこの軸は大きく動くこととなった。AFOや殻木の「荼毘は最早自分たちの手の外にある存在」との言葉からも、轟家を取り巻く物語がAFOと切り離されて語られるべきであると言えるだろう。
 話は少し変わるが、お世辞にも作品全体での中心的人物と言えないものの、轟焦凍の文脈には割と高い頻度で登場するキャラクターがいる。そう、本記事のタイトルにもある八百万百だ。詳しくは後述するけれど、この二人は小さなコマなどで互いに気にかけている様子をわざわざ挿入されることが少なくない。別に他のキャラクターでも一見問題なく思われる箇所においても、轟を気にかける人物に八百万が、八百万に注意を向ける者に轟が、それぞれ選ばれやすく見えた。そして、この傾向は轟周りの文脈において八百万が一定のはたらきをなしているためであると説明することができるかもしれない。本記事における私の主張は一言でまとめるとこのようになる。
 この記事では、上で触れた通り主人公とは異なるところで展開される轟焦凍の軸の特徴と、そこでの八百万百の持つ役割について論じていく。なお、この内容は全て私個人の見解に過ぎず、これが絶対の正解であると押し付けたり、他の解釈が誤っていると主張したりする意図は一切ない。あくまで『僕のヒーローアカデミア』の見方の一つとして、そういう考え方もあるのだな、くらいの感覚で読み進めていただきたい。この記事を読んでヒロアカの楽しみ方が増えるなど何かしら作品に向き合う態度に良い変化があれば、これ以上の喜びはない。

ヒロアカにおける轟焦凍の持つ軸の特徴

 本題に入る前に、まずは「はじめに」で述べた「轟焦凍が中心となっている”軸”」についての詳細を論じよう。
 既にざっくりと触れた通り、それはすなわち轟家についてのあれそれである。エンデヴァーの執念から始まり、皆少しずつ弱くて、いきなり全部解決する方法など存在しないほどにぐちゃぐちゃになってしまった。拗れきった人間関係を解きほぐすには、明るい未来に進むには、結局一つ一つほどいていくしかない。目を逸らさないこと、それが、轟自身が選びさらには家族全体に波及していった姿勢だった、と私は考えている。
 また、轟家に関する台詞では「見る」という言葉が印象的に用いられている。真っ先に思い出されるのは、ビルボードチャート発表の場で発されたエンデヴァーの「俺を見ていてくれ」だろう。他にも、轟の「なりてえもんちゃんと見ろ‼」は、轟がこの時の飯田をかつての自分と重ねていること、恨みつらみの感情で動き視野が狭まってしまっている人間に対し放たれていることなどから、飯田だけでなく体育祭以前の自分自身にも向けた言葉と取ることができる。九州ハイエンド戦のエンデヴァーへ「見てるぞ!」と言っていた描写もこの例に挙げられる。
 以上の通り、兎角轟関連の軸では「見る」行為に非常に大きな文脈が乗っているのだ。

轟と八百万の交流に見られる共通点

 続いてこの章では、轟と八百万の交流の作中描写に共通しているものが何か考えていく。作中の二人の描写を列挙することを取っ掛かりとしよう。なお、ここでは同じ画面に映っているが会話はない場面や、アニメオリジナルの描写は除外し、あくまで「交流」と見なせる、すなわちどちらかが相手に明確に言及している原作内のもののみを考慮する。2023年3月12日現在、以下の7つが、意図的に作者に描写されたと思われるものだ。

①委員長決めで轟が八百万に投票
②同じ推薦入学者である轟と自分を比べて自信を無くす八百万
③一学期期末テストの演習試験で轟の口から直接①のことを聞き自信を取り戻す八百万
④爆豪奪還に向かう轟と切島の話を聴き二人に同行すると決める八百万
⑤仮免試験合否の際、不合格だった緑谷とともに轟を気にかける八百万
⑥B組との対抗戦で八百万の能力などを解説(?)する轟
⑦全面戦争後病室で轟に言葉をかける八百万

 これらの描写にはある共通点を見出すことができる。私の結論から述べれば、それは、轟と八百万のそれぞれが互いを見ていたことがわかるようになっていることである。⑦で八百万がかけた言葉、「轟さんのこと…私たちは見ていましたもの」は非常にわかりやすい。他の描写についても順を追って説明しよう。

①と③委員長決めで轟が八百万に投票

 まず①と③について。この二つをまとめて論じるのは、①は実際に委員長決めがあった話で強調されておらず、かつ③で注目したいのがライジングした八百万当人ではなくその原因となった轟が口にした内容の方であるためだ。
 ③において、轟は八百万に学級委員決めの際投票したこと、そしてその理由として「そういう(何か策を講じる)ことに長けた奴だと思ったから」と話していた。この言葉からは、入学時、すなわち体育祭よりも前の時点の轟が八百万のことを見ていた事実を読み取れる。もし仮に委員長をやる気が全く起きず自分以外の誰でも良いから隣の席の彼女に入れたとしたら、このような言葉は出てこないはずだ。つまり、彼が一票を投じた時、八百万がどのような性質の人間か、どういった長所を持つのか、自分の分析に基づく明確な根拠を持っていたのである。飯田とお茶子がデクを見ていたのと同様に、轟もまた八百万を見ていたと言えるだろう。

②同じ推薦入学者である轟と自分を比べて自信を無くす八百万

 続いて②について。期末試験の少し前の話で挿し込まれたこのコマにおいて八百万は、体育祭で結果の振るわなかった自分と準優勝で表彰台に上った轟とを比べ悄然としている(一応体育祭時点で客席にいる彼女が何やら浮かない顔をしている描写はある)。この時に八百万が自分と比較していることから、当然ではあるが、彼女は轟の実力を認識していると言える。推薦入学者という同じ立場からスタートした彼を入学時から隣の席というある意味一番近い場所で見ざるを得なかったからこそ、あの場で他の誰より彼との実力差を感じているのではないだろうか。彼女の以外にも体育祭であまり良いところのなかったキャラクターは多いにもかかわらず彼らが轟と自分を比べ落ち込む様子は描かれていなかったことも、八百万は自らの作中での立ち位置がゆえに人一倍轟を見ていたから、と推測できる。また、優勝した爆豪ではなく轟に劣等感を抱いている点も、期末試験で零した通り「スタートは同じ」だったとの意識が強いためだろう。入学してからずっと見てきた、だから否応なく彼の鮮烈さに他より目が行き、自分の弱さを過剰に省みてしまった。八百万が爆豪でも常闇でもなく轟との差に悩んでいた描写こそ、彼女が彼を見ている証左の一つと考えられる。

④爆豪奪還に向かう轟と切島の話を聴き二人に同行すると決める八百万

 爆豪奪還へ向かうために八百万が創造した発信機のレシーバーが必要と言われた彼女が取った選択は、単にレシーバーを渡すのではなく、戦闘行為に入らないよう監視すべく同行することだった。勿論ヒーロー科の人間なら誰であってもここで自分だけは安全圏に残る、などの行動は取らないだろう。八百万の立場は飯田と同じ「ウォッチマン」である。非正規の戦闘を止めるために見ておく二人の姿勢は、死穢八斎會編での相澤を彷彿とさせる。この時八百万が見ていたのは轟以外にも切島と緑谷がいるものの、ここにも「見る」という行為が入っていることは疑いようもない。

⑤仮免試験合否の際、不合格だった緑谷とともに轟を気にかける八百万

 仮免試験の合否発表後に、わざわざ一コマを割いて緑谷と八百万が轟の様子を気にしている様子が描かれた。体育祭から何かと仲の良く、かつイナサとの衝突も目撃した緑谷がいるのは彼の性格からしても納得だが、八百万の方は路地裏組のもう一人、飯田であったとしても問題はないはずだ。この時飯田は峰田を抑えているとはいえ、その後に轟を気遣わせても流れは不自然にならない。しかし、あえてここで描写があったのは八百万である。緑谷とは異なり、彼女はこの仮免試験においてほとんど轟と絡んでいない。にもかかわらずわざわざ彼女が選出された理由として、轟が全編を通じて持つ物語に八百万が一定の、決して小さくない役割を与えられているからではないか、と考えるのはむしろ自然だろう。後の章で詳しく論じる八百万の「役割」を補強する材料の一つとなっている。そしてここでも、八百万が轟を見ていることは明白な事実なのだ。

⑥B組との対抗戦で八百万の能力などを解説(?)する轟

 B組との対抗戦において唐突に――そう、本当に唐突に!――轟が八百万百を語り始めた場面の印象が強い方も少なくないだろう。拳藤について熱く話す鉄哲に感化されたのか、普段の様子とは異なり割かし饒舌な彼に非常に驚かされる。轟はここで、自分が八百万の能力をどう見ているか、八百万はどのような人間なのかを、期末試験の時と同じように、いや、より具体的に、述べている。また、轟は使わないが八百万は多用する単語の「オペレーション」をあえて用いたことも、彼女が考案する策は常にその名で呼ばれると理解していたため、と解釈することもできる。もし仮に轟が元々オペレーションと言っていたなら、同じコマにこの語をオウム返しにする尾白が映される必要はないはずだ。
 この一連の台詞から、八百万の司令塔としての力量と、彼女が実際にその役回りを果たす時の様子、轟がその両方を見ていることがわかる。加えてこの第2セットで惜しくも敗北した八百万を見て「……また弱気になんねェといいが…」と言っていることから、彼が期末試験の時の彼女の言葉や状態を覚えていること、そしてそれを踏まえた上で現在も彼女の心情を慮ろうとしていることも読み取れるだろう。
 なお、八百万のリーダーとしてのはたらき自体は耳郎や上鳴、仮免時のお茶子なども目にしているため、轟が解説もどきを務めた理由に「たまたま八百万のそうした面を知っているA組のキャラクターが彼しかいなかったから」ということは挙げられにくい。他ならぬ轟が語ることで、この描写には①や③に直結する流れが存在していると読者は確信することができるのだ。

⑦全面戦争後病室で轟に言葉をかける八百万

 本章冒頭でも軽く言及したように、八百万はここで轟を「見ていた」と伝えている。そして、私たち読者は②、④、⑤から確かにその事実が作中にあったことを知っている。八百万の言う「私たち」とはA組のクラスメイトのことだと思われるが、この言葉を轟に届けるのがA組の中でも八百万でなければならなかったことがわかるはずだ。八百万以外にも轟を見ていた人間はいただろうけれど、本編において明確に轟を見ている人物として設計されているのは八百万だからだ。
 ちなみに、この台詞は「見る」という直接的な語が用いられた二人の最初の交流であり、この場面こそ、轟の文脈に八百万の果たす役割が存在していることの決定的な裏付けである。逆にここで「見る」と八百万が言わなければ、この記事の内容に説得力を持たせることは非常に困難なものとなっていたことだろう。

 列挙した7つの描写について、轟が八百万を、あるいは八百万が轟を、見ているという観点から分析した。章の始めで述べた共通点も、完全に見当違いというわけではなく、むしろある程度のもっともらしささえ担保されているように思われるだろう。
 共通点を洗い出したところで、最後の章ではここから導き出される、八百万百が轟焦凍のコンテクストで担っている役割を論じていく。いよいよ記事も大詰め、楽しんで読んでいただけると嬉しい。

八百万百が轟焦凍の物語で果たす役割

 さて、数々の描写は轟と八百万が相互に「見ている」ことを示していることがわかったけれども、果たして一体これが轟の物語にどう影響しているのだろう。

1.轟の善性の象徴

 私は、一連の描写には二つの意味があると考えている。一つは、轟が他者を「見る」ことのできる人間であること、ひいては彼の生来の善性、それらの証明となっているのではないか、ということだ。
 本編において、轟は自分自身やなりたい姿に加え、父や燈矢のことを「見て」いくことになる。しかし、体育祭以前の彼は視野が狭まっており、家族のことはおろか自身の目指すヒーロー像すら見ることができていなかった。例えばこれが、もし上記の八百万との交流がほとんどなかったとしたら、21巻などでエンデヴァーが「見ていてくれ」と言い、轟が「見てるぞ」と返すくだりや、26巻でデクに言われた「許せるように準備をしてるのではないか」との推測は説得性を欠いていたかもしれない。あれほど恨んでいた人間を「見る」ことができるのか、そう簡単に許すことを考えられるような過去だったのか、一見そんな疑問が浮かんでしまうおそれもある。けれど、轟が八百万を「見ていた」事実は、読者にそうした違和感を抱かせない作用を持つ。轟がたとえ憎しみなどを持っていたとしても他者に目を向けられる人間であることを物語っているからだ。他者を見れる彼が、緑谷戦以降父を含む家族から目を逸らさないで向き合っていくことには一定の説得力がある。また、全面戦争編からは特に顕著に轟の高潔さは描かれているが、それもヒーロー科での1年で養成されただけでなく彼が元来その素質を備えていたのだと、自身の復讐と他者への評価を切り離すこともできることから読み取れる。八百万を「見ていた」情報があることにより、まるきり人格が変わったのではなく、過去の歩みから地続きで現在の轟焦凍が存在していると実感できるのだ。
 勿論視野が狭くなっていて見えなくなっていたものも多くあるだろう。仮免で登場したイナサはその好例とも言える。イナサと轟の関係は、八百万と轟とのそれとは好対照をなしている。イナサは入試から先の轟を見ておらず、轟は入試で彼のことを気に留めることさえしなかった。他方、八百万は轟を入学以降もずっと見ており、入学してからすなわち入試より後の時間で轟も彼女を見ていた。ゆえに、「見る」ことに着目すれば、イナサと八百万が作る対比構図から、ある解釈が成立する。つまり、轟の過去の負の面を象ったのがイナサなら、反対に彼が生まれ持った善性を象徴するのが八百万百なのではないか。先ほど轟が元来持つ他者を「見る」ことのできる性質が彼の高潔さの基礎となっている、と論じたが、この性質はそのまま彼の善性と言い換えられる。この性質が彼の父を許そうとする行為や家族と真っ直ぐ向き合おうとする意志の原動力の一つなら、それは間違いなく「善性」と呼ばれうる概念だろう。そしてそれを保証する八百万の役割もまた、自ずとわかってくるはずだ。
 したがって、章題にある役割の一つは、轟焦凍の善性を読者に説明すること、とまとめることができる。

2.轟とA組の関係

 次に、一つ目の役割では轟が八百万を見ていた側面に焦点を当てていたが、二つ目では逆に八百万が彼を見ていたことの物語的な意味を考える。
 轟は「A組の皆はすぐそこにいてくれた」と語る。デクと同じく彼もまた、同じ歩調で隣を進まんとする友の存在に救われていたことがわかる台詞だが、このA組が「すぐそこにいた」ことの作中での描写が、八百万が轟をずっと見ていたことにあたる、と私は考えている。
 轟は自分が何歩も出遅れてしまっており、すぐクラスメイトたちに置いて行かれてしまうと思っていた。しかしその実クラスメイトは彼の側にいて、置いていったりすることなどはなかった。この部分だけを見れば、轟とクラスメイトの絡みはあまり本編に登場しなかったものの轟から見てもA組は大切な存在だったと読者には十分伝わる。その一方で、実はその「A組が轟を待たずに残していくようなことはしない」描写は、これまでにしっかりと積み重ねられているのである。そう、前章で分析した八百万との交流だ。
 八百万はずっと轟を見ていたキャラクターである。体育祭以前も、それより後の時間でも、度々そうした描写が挟まれ彼を「見ている」キャラクターとして設計されている。轟が自分はずっと後ろにいると思っていたのに、当の八百万は隣の席という教室で一番近いとも言える場所から彼を見ていたのだ。彼女にしてみればそこに特別な意味はない。そして逆にそうであるからこそ、轟はA組が当たり前のように隣にいてくれるのだと安心できたのかもしれない。轟を気にかけ「見ていた」八百万は、まさしく轟にとっての「置いていかなかったA組」の代表であったと言えるだろう。実際、No.352の「皆はいつもそこにいた」というモノローグのコマでは、読者の目に入りやすい中央に近い位置に緑谷、飯田などと並んで八百万が描かれている。さらに、八百万が置いていかなかったA組の代表として轟と関わっていたと考えれば、前章⑦の「私たち」がA組を指しており、あえて一人称単数を使わなかったことにも説明がつく。つまり、八百万はA組の一人として轟を見ており、その行為は「轟とA組の関係」の一例と表現されうるということだ。
 ゆえに、八百万は轟を「見ていた」者として、置いていかない仲間の代表の役割を果たしていると考えることができるのである。

まとめ

 本記事では、轟焦凍が持つ独自の文脈における「見る」行為の重要性、本編中の主要な二人の交流描写、そしてその分析をもとに八百万百が文脈内でどのような位置づけにあるのかを論じた。轟と八百万は、互いが互いを「見ている」ことを読み取れ、轟が八百万を見ていることは轟の本質的に備えた善性を示唆し、八百万が轟を見ていることはA組が轟を置いていかなかった実際の様子として機能している。八百万は、轟”が”見ていた、かつ轟”を”見ていたという両方の立場から、これら二つの役割を担っているキャラクターであると言えるだろう。

 なお、繰り返しにはなるものの、本記事の内容はあくまで一個人の感想と意見に過ぎないため、これを押し付けるつもりも唯一の正当性を持つなどと主張するつもりも持っていない。長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださったあなたに心からの感謝を込めて、筆をおこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?