日常の中に当たり前のようにある「善意」(すずめの戸締まり感想)

 先日、すずめの戸締まりを鑑賞してきた。作中でテーマが一貫しており、そのための要素が過不足なく描かれており、非常に満足感の高い映画であったと言える。私は新海誠監督の作品はこの他に「君の名は。」しか見たことがないけれど、個人的に一番色々な部分に刺さったので、公開前散々言われた「最高傑作」との売り文句もあながち言い過ぎではないのかもしれない。
 本作のテーマは様々な角度から見ることができるだろうが、今回の記事ではタイトルにある「日常の中にある『善意』」に着目しながら各要素について考えてみようと思う。なお、筆者は入場者特典のインタビューは未読であり、あくまでこれはこの映画をまっさらな状態で鑑賞した人間によるまっさらな感想であること、従って明確に監督本人によって否定された考え方が含まれている可能性も十二分にある。そして、当然のようにネタバレしか書かれていない。さらに、本記事の内容はどこまでも一個人の感想であり、他人にこの解釈を押し付けることを目的にしたものではなく、このような考え方の人もいるのだな程度の認識で読み進めていただきたい。以上の中で少しでも懸念事項があるならブラウザバックを強く推奨する。それでもこの記事を読破しようという猛者なら、もう私からは何も言うことはあるまい。

 この作品の特色の一つには、「平凡な善人」しか登場しないことが挙げられる。極悪人も聖人も存在せず、人並みに良くない感情も持ち合わせつつも、ただ相手が「家族だから」「友達だから」「困っているから」といった単純明快な理由のみに起因する善意を他者に向けることのできる人間の中で本編は紡がれている。
 すずめが「死ぬのが怖くない」のは「未来が怖かったから」、逆に言えば「未来が怖くない」今は「死ぬのが怖い」のである。未来が恐れるべきものでないこと、自分自身が過去の自分にとっての明日であること、それらに彼女が気付けたのは、今回の冒険があったからだけではなく、この九州から東北への道中も含めた12年間で前述した「善意」に包まれて生きてきたこが大きく影響している。だからこそ、本作には明確な悪人は登場しない。みみずでさえも意志のない単なるシステムであることが本編で明言されている。もし一人でもすずめを陥れようと行動する者がいたならば、この作品の核にある「日常の当たり前の善意」が揺らいでしまったことだろう。
 この「善意」を信じ切れていなかったことこそ、環とすずめが踏み込めない関係性のままだった要因として描かれていると私は考えている。どうせ迷惑に思っているに違いないのに、それを感じさせない環からの善意をどこか疑わしく思っていたすずめが「日常の中の善意」の存在を理解するに至った理由は大きく分けて二つある。一つは、冒険の中で全くの他人による善意を幾度となく差し出されたこと、そしてもう一つは、なんとなく感じ取っていた環の中の負の感情を、他ならぬ環自身の口から聞けたことだ。
 見ず知らずの人間が助けてくれたり心から心配してくれたり、すずめは数多くの善意を受け取ることになる。それは決して好意や下心などではなく、「困っている人がいたから」などのシンプルな感情に基づいているものだ。その事実は、相手が数時間前に知り合ったばかりの赤の他人であるからこそ理解できると言える。すずめが環に覚えていた訝しさは、善意を向けてくれるなら好意に根差し、そこには悪感情はないだろうという思い込みがあった、つまり良くない感情を持っているのに善意を与えることは取り繕うかのように見えてしまうことに起因する。血がつながっているがゆえに環との関係性の中で見えなくなっていたものが、環のいる地元を離れ広い外の世界に出たことではっきりと知覚できるようになった。
 そして、二つ目の要因、環自身の言葉で環の中にある利己的で暗い感情を聞けたことが異なる角度からすずめにこの「善意」を信じさせた。環はすずめが疑っていた通りのことを心のどこかで思っていたと人づてではなく直接聞いた。好意だけではなくちゃんとそこに黒い気持ちが存在していたことで、逆説的にすずめは環がこの12年間与えてくれた「善意」が旅の中何度も何度も助けられた「善意」と同質のものであることを知ったのだろう。その後、環は「それだけじゃなくて」とすずめに言うが、すずめもそれは知っている。この数日間で出会ったたくさんの人たちが教えてくれたことでもあり、振り返った12年間の日々が明確な証左であったからでもある。この夜を経て、すずめはごく自然に特に気負うこともなく環にダイジンたちについて打ち明けられるようになっている。それは環への不信感が消え、決められなかった踏み込む覚悟が、覚悟さえ必要なかったのだと知り得たからなのだろう。

 ここまですずめの「受け取った」ものを中心にこの「日常の中の善意」を見てきたけれど、本作ではすずめもまた、この善意を与えている。その最たる例がダイジンだ。
 すずめは序盤で瘦せこけた猫にごく当たり前にミルクを与え世話を焼いた。それはその猫を好きだったからでも何か返礼を期待していたからでもなく、その猫が困っていたからだけに過ぎない。すずめは信じられないはずの「当たり前の善意」を自分自身もまた当たり前のように他者へ向けていた。しかし、ダイジンはそれを彼女が自分に好意を持ってくれているからだと考えてしまう。本編前半のダイジンの行動の嚙み合わなさは、このすずめの行動に対する理解に齟齬があったことによる。ゆえにすずめから「大嫌い」と嫌悪を示されてあれほどまでの衝撃を受けていたのだ。
 ダイジンはそれでもすずめについていく。そして、東北へと目的が移ってからの旅路でダイジンもまたこの「善意」がどのようなものかを悟るのである。目的地に着いてからすずめの探していた後ろ戸まで彼女を連れて行った時、すずめはダイジンに心からの感謝を伝えた。ダイジンのこの行動は困っているすずめに対しなされたもので、かつてダイジンが彼女から貰った「善意」と変わりない。それを知ったすずめは、ダイジンに「ありがとう」と言うのであった。「すずめが好きだから」取っていたこれまでの行動には贈られなかった彼女からの感謝の言葉が、今回の行動には与えられたのである。
 なぜダイジンのすずめへの好意にのみ因った行動はすずめに非難こそすれ感謝されなかったのか、そしてダイジンに限らずなぜ本編では「当たり前の善意」をここまで肯定的に描かれるのか。それは、そうした好意に「のみ」端を発した行動は、結局相手ではなく自分のことを考えているからであると私は考える。相手はこれを望んでいるに違いない、という憶測は、相手の姿そのものではなく自分が相手に好かれたいという気持ちにばかり目が向いているばかりに憶測の域を出ず、結果ダイジンの前半の行動のようにかえって迷惑となってしまう。他方こうした「善意」は、自分の好意にも悪感情にも関係がなく、ただ目の前の困っている相手だけを見つめているため、相手の求める行動により近づきやすい。両者の違いは、視線の先にあるのが自分自身か相手か、が大きなポイントであることは明白だろう。
 さて、こうした「善意」とはどのようなものであるのかを理解したダイジンは終盤にて、草太を助けようとするすずめに手を貸し、あれほど嫌がっていた要石に再び戻ることを自ら選択する。それは困っているすずめを見たダイジンの「当たり前の善意」による行動そのものであると言えよう。

 冒頭にて、こうした善意を他者へ渡せる人間を「平凡な善人」と評した。あえて「平凡」という言葉を選んだことには当然理由がある。そして、これは今作がどこまでも日常の延長であったことにも繋がっていると私は考えている。
 大抵の人間は、そこまで強い悪意も好意も持っていない。苛烈な悪意を持ち続けることには単純に非常に多くのエネルギーを必要とするし、かと言って好意を向けるくらいよく知った他人に対して全く不満に感じることもなく純粋に良い感情だけが向くなんてこともまずない。人間関係の多くの場合で、相手に少しの羨望だったり不満だったりを抱えつつも、決してそれだけではないまま、どちらかと言えば好きである、といった状態にあるのではないだろうか。そして、あまり知らない相手には良いも悪いもないから困っていれば手を貸すし、逆にある程度親交があったとしても「どちらかと言えば好き」なのであるから、好意あるいは下心が相手への善意の根幹をなせるほど強くはない。理由を説明しろと言われれば相手を好きだからよりも「家族だから」だったり「友達だから」だったりの答えが返ってくることだろう。結果、割とこの「当たり前の善意」は平凡であり、普遍的である。
 本作ではこうした「善意」の中心にいるのは主にすずめだが、この「善意」の普遍性を担保する存在として登場するのが、草太の友人の芹沢だ。彼がすずめの旅に同行してくれるのは、草太の「友達だから」である。環が「家族だから」すずめを心配しているのと同じように、彼は友達として当たり前に草太を案じている。すずめだけではなく、草太の周囲にもまた、この「善意」を向けてくれる人物がいることで、こうした「善意を受けて光の中で生きていく」のが、すずめだけに限った話ではなく万人に当てはまるものであることがわかるのである。
 「すずめの戸締まり」で描かれる冒険は、日常から地続きだ。それは、こうした平凡で普遍的な「善意」が日常にありふれているからである。どんなに遠くまで行ってしまっても、そうした「善意」に囲まれているため、どこか日常の空気が漂っているのだ。非日常に思われても結局日常のまま進んでいくすずめの旅は、12年前に日常が大きく変わってしまったすずめが、それでも「日常」を生きてこられたことにも重なっている。あの日、もう非日常になってしまったと思ったけれど、それでも周囲の善意という光の中は「日常」だった。「日常の中にある善意」と述べたが、逆にこうした「善意」に溢れた光こそ、日常を日常たらしめる要素なのだろう。

 最後に、この「善意」が「光」として描かれていることについて考えてみよう。「常世」は今作において唯一明確な非日常であった。そんな非日常に広がるのはどこまでも続く「夜」の世界。すずめが、自分が「すずめの明日」であると幼き日のすずめに伝えた時、光が差し込み一瞬夜明けが来るような演出が入る。それは常夜であった「常世」に朝がもたらされた瞬間であり、差し込んだ光こそ「善意」そのものであった。つまり、今作における日常に必須である「当たり前の善意」こそ、常夜の非日常に朝としての日常を呼び込むものと言えるのではないだろうか。

 長くなってしまったが、私がこの記事で話したかったことは、この作品で一貫してこの「日常の中にある当たり前の善意」について描かれており、そのための各要素が過不足なく最適な形で配置されている、ということだ。そして、そうした「日常」を主題にした作品で、日常を何の意志もなく壊していく災害に焦点を当てたことも新海誠監督のアイデアが光った部分だと思う。この記事では触れていないが、草太が大勢のためなら平気で自分の命を捧げるような聖人でなかったことも、この作品の「日常」を描く上でたいへん重要であると言えるだろう。

 劇場で一瞬も飽きることなく夢中になった作品だった。映画館で鑑賞して本当に良かったと心から思う。
 ここまで読んでくださりありがとうございました。

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