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第十四回:追悼 テリー・ホール

堀口麻由美『カルチャー徒然日記』
Text & Photo:Mayumi Horiguchi

Terry, Thinking of You


12月2日・BOOKMARCにて行われた音楽プロデューサー/アーティストの井出靖氏が収集してきたレア・ヴィンテージ・ポスターの展示販売<VINTAGE MUSIC, MOVIE & ART POSTER EXHIBITION>レセプション時に撮影。

1979年。新しい時代の幕開けだ――『ザ・2トーン・ストーリー(THE TWO TONE STORY)』(ジョージ・マーシャル著)の裏表紙には、そう書かれている。その通りだった。世界は2トーン前と2トーン後、まったくの別物になったのだから。

『ザ・2トーン・ストーリー』裏表紙。

2トーンという、かつて類を見ないムーヴメントが始まり、世界は永遠に変わった。ロンドンではなく、自動車産業で知られるイングランドのコヴェントリーという地方都市でジェリー・ダマーズが設立したレーベルは、単なるレーベルにとどまらなかった。社会全体を変革した。ジャマイカ生まれのスカとパンクを融合させた2トーンというジャンルは、イギリスの高い失業率や極右の台頭などを背景に誕生し、当時蔓延していた人種差別や性差別に対抗するメッセージを広めようとした。その姿勢は、現代の「ブラック・ライヴズ・マター」やフェミニズムにも繋がっている。


2トーンを代表するバンドのひとつ、セレクターが1980年に発表したデビューアルバム『トゥー・マッチ・プレッシャー』。ヴォーカルのポーリン・ブラックは女性で、人種・性別を超えたグループとして評判を呼んだ。

その2トーンを代表するバンド、ザ・スペシャルズの "顔” だったリード・シンガーのテリー・ホールが亡くなった。2022年12月18日、63歳という若さでがんにより逝ってしまった。バンドの一員として、2トーンという音楽ジャンルと反差別の思想、労働者階級の若者の怒りを、音楽を通じて世に広めた。以前お話しさせていただいた時に、「2トーンはたんに当時流行していた音楽だってわけじゃなくて、様々な物事を変えた素晴らしいムーヴメントだったんだ」と力説していたが、本当にその通りだ。このテリー・ホールという「ルードボーイ」は、私の人生を変えた。いや、私だけじゃなくて、世界中のいろいろな人物の人生にも多大な影響をおよぼしたし、今もきっとそれは続いている。様々な著名人がツイッターをはじめとするSNSに熱い追悼コメントを寄せたが、こんなにもたくさんの人々に愛されていたんだと、再認識した。

精力的な政治的活動で知られるビリー・ブラッグは「スペシャルズは、カリブ海からの移民によって英国文化がいかに活性化されたかを称える存在だった。でも、リード・シンガーのステージ上での振る舞いは、このバンドが、1970年代後半に我々が抱いていた自己認識を覆すために真剣勝負をしていたことを思い出させるものだ。RIP テリー・ホール」と真摯な言葉を寄せた。デーモン・アルバーンは「テリー、君は僕にとって世界を意味していた。愛してるよ」とツイートし、スペシャルズの曲「フライデー・ナイト、サタデー・モーニング」をピアノで奏でた。スペシャルズ同様、黒人と白人から成るバンド、マッシヴ・アタックは「青春時代のプロテスト・サウンドトラックであり、バンドの青写真だった。レスト・イン・パワー、テリー・ホール」と追悼の意を表した。彼ら以外にもたくさんのミュージシャンがその死を悼み、地元コヴェントリーのサッカー・クラブであるコヴェントリー・シティ・フットボール・クラブは、試合のヴィジョンにスペシャルズの曲「エンジョイ・ユアセルフ」の歌詞から引用した一節「Hello, I’m Terry and I’m going to enjoy myself first(やあ、僕はテリー。まずは自分が楽しんでみるよ)」を映し出した。みんな、テリーが好きだった。みんなテリーから影響を受けていたのだ。

ファン・ボーイ・スリーが1982年に発表した、同名のファーストアルバム。
同じく1982年に出た、ファン・ボーイ・スリー「サマータイム」12インチヴァージョン。
当時、このテリーの髪型が可愛いと話題に。

そんなふうに、スペシャルズでは「被差別者」の側に常に寄り添い、その気持ちを代弁し、歌ってきたテリーだが、本人の健康状態でいうと、ずっと精神を病み続けていた。81年にスペシャルズを脱退し、同じく同バンドを脱退したネヴィル・ステイプルズ、リンヴァル・ゴールディングと組み、三人組バンドのファン・ボーイ・スリーを結成。音的には、ファーストではパーカッションとヴォーカルをフィーチャーしたミニマルなアフリカン・ビートが特徴的だし、セカンドではチェロやトロンボーンなども取り入れるなど、革新的な音作りに取り組んでいた。そのトライバル感ゆえ、陽気なノリも漂うものの、歌詞は不穏なものが目立ち、精神面での暗さを露呈しまくっていた。一見、楽しげな歌詞の曲ですら、なんとなく薄ら暗かった。1983年発表のバンドのセカンドかつ最後のアルバム『ウェイティング』に収録されている曲「ウェル・ファンシー・ザット」は、特に痛々しい曲だ。12歳の時、自身が学校の教師から受けた性的虐待を歌った私小説的な歌詞が、その傷の深さを物語っている。この悲惨な体験後、テリーは生涯うつ病に苦しんだという。私が日本で会った時も、一緒に来日した方がテリーの精神面を心配していた。スペシャルズ時代とは異なるポップな外見からは想像もできないぐらい、ファン・ボーイ・スリー時代のテリーは「病んだ魂」全開だったのだ。そして私は、そこにこそ惹かれていた。テリーは「親よりもサッカーの方が、自分を救ってくれた」と語ったが、私としては「親よりもテリー・ホールが生み出す音楽の方が、自分を救ってくれた」と言いたい。そんなテリーは、「音楽を通じて良好なメンタルヘルスと回復をもたらす」ことをモットーにしている非営利団体「トニック・ミュージック・フォー・メンタル・ヘルス(Tonic Music for Mental Health)」の後援者でもあった。同団体がメンタルヘルスの問題を抱える人々のための資金を確保するのに協力し、ライブ・チケットの売り上げ等を寄付していたという。そしてテリーは、言葉や音楽など、"声を出すもの" を通じて、痛みや苦悩を伝えることを提唱していたそうだ。ファン・ボーイ・スリー時代には、まさにそれを実行して、自らを癒していたのかもしれない。

ファン・ボーイ・スリーの解散後は、ザ・カラーフィールド(The Colourfield)、テリー・ブレア&アヌーシュカ、ユーリズミクスのデイヴ・スチュワートと組んだヴェガス(Vegas)、ソロとして活動を続け、ゴリラズやダブ・ピストルズなどにも参加。藤原ヒロシの曲「Getting Over You」のヴォーカリストにも起用されている。スペシャルズは、他のメンバーが再結成した時にはテリーとジェリー・ダマーズは参加していなかったのだが、2008年についに参加(ちなみにダマーズは、現在も未参加のまま)。以後はツアーなども行い、アルバムをリリースして全英チャート初登場1位を獲得したりもしている。そしてさらなる新作アルバムの制作を始めようという頃、深刻な体調不良に見舞われるようになり、その渦中で亡くなってしまったのだという。

テリー・ホールが1984年から始めたバンド、カラーフィールドのデビュー盤『ヴァージンズ・アンド・フィリスタインズ』('85)。

ミュージシャン仲間はみんな、テリーのことを「美しい魂」だと語っているが、本当にそうだ。始めて会う私にも優しく接してくれて、最初の結婚生活の苦労についてまで話してくれた。またスペシャルズといえば、クールな着こなしも目立ったバンドだ。ダマーズが定義したルードボーイは「ブルービート、スカ、レゲエ、ソウルを好み、トリルビー(縁が狭く深く中折れした男性用帽子)、山高帽、ポークパイハット、ピンストライプスーツ、ボタンダウンシャツ、チェックのスカーフを身に着けている」のだが、そのルックは小粋だったし、ファン・ボーイ・スリーでもキャベツ頭の不思議ちゃん的な装いが印象深かったから、服に凝るタイプだと思っていたのだが、「服はいつも悩みの種だったよ。明日テレビに出るとかいう日の前は、どうしたらいいか頭を悩ませたし......基本的に服とか興味ないんだよね」と意外な事実までペラペラと語ってくれる、気さくな良い人だった。

ピュアな人は早死にしてしまうというが、それが事実なら、まさにテリー・ホールはそうだ。どうしよう、私みたいな人間は長生きしてしまうかもしれないから、虹を渡った先でテリーに会うのは、まだまだ先になってしまうかも。仕方ないから、テリーと会えるその日まで、スペシャルズとかファン・ボーイ・スリーとか、カラーフィールドの音楽を聴き続けて、その魂を身近に感じさせてもらうことにします。

テリー・ホール、その清き魂よ、安らかに。

【テリー・ホール Terry Hall: Profile】
テリー・ホール(1959年3月19日– 2022年12月18日)は英のミュージシャン。2トーンの代表的バンド スペシャルズのメンバーとして70年代終わりから80年代初めにかけ数々のヒット曲をリリース。スペシャルズを脱退後、ファン・ボーイ・スリーを結成。その後もカラーフィールド、テリー・ブレア&アヌーシュカ、ヴェガス、ソロとして活躍。最近は再結成したスペシャルズにも参加していた。
・スペシャルズ・日本の公式サイト:https://www.universal-music.co.jp/the-specials/



堀口麻由美
ほりぐち・まゆみ。
Jill of all Trades 〈Producer / Editor / Writer / PR / Translator etc. 〉『IN THE CITY』編集長。雑誌『米国音楽』共同創刊&発行人。The Drops初代Vo.


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